7月13日は、歌手の中森明菜が生まれた日(1965年)だが、評論家、堺屋太一の誕生日でもある。「巨人・大鵬・卵焼き」「団塊の世代」という流行語を作った人である。

堺屋太一は、1935年、大阪に生まれた。本名は池口小太郎で、父親は弁護士だった。小太郎は、高校時代はボクシングで活躍した理科系で、東京大学の工学部に入った後に、文系の経済学部へ移った。
国家公務員の上級試験に合格し、入った通産省で大阪万博を企画し、1970年、35歳のときに実現させた。
1975年、40歳のとき、沖縄海洋博を担当。同年、堺屋太一のペンネームで処女小説『油断!』を発表。これは日本が石油が輸入できなくなった事態を想定した綿密な調査に基づく近未来シミュレーション小説だった。『油断!』出版後、日本の石油備蓄量は約三倍に増えた。
41歳で小説『団塊の世代』を発表した後、43歳のころ役人をやめ、以後、評論家、イベント・プロデューサーとして、マスメディアや国際博覧会で活躍した。
63歳のとき、民間人閣僚として小渕内閣の経済企画庁長官となり、退任後は、学者として、また政治運動家としても活動している。75歳のとき、上海万博で日本産業館を経営し、高級和食とたこ焼きを出展した後、2019年2月、多臓器不全のため、東京都内の病院で没した。83歳だった。

堺屋太一が日本人の性質について、こんなことを書いている。
「日本人の変わり身の早さは、私自身も体験しました。一九六四年、当時二八歳の通産省係長だった私は、『万国博覧会の開催』を提唱、地を這う努力を重ねました。これが二年ほどで周辺に知られると、通産省の内外から非難の声が上がりました。
 ところが、いよいよ万国博が実現しそうになると、反対していた人たちが『私がはじめた』『俺の案だ』と手柄顔で触れ回るのです。(中略)
 私は『あとから来る賛成者』を歓迎することにしています。反対論者が賛成に転向して来るのは、そのプロジェクトが成功しそうだからです。あとから乗り込んで来て手柄顔をする人も、事業の推進力となるのです」(『「維新」する覚悟』文藝春秋)
いろいろな場面で日本人の変わり身の早さに直面し、そのたびに辟易とさせられてきたけれど、彼のように歓迎する気持ちにはなかなかなれない。鋭い議論で斬り込んでくる一方で、こうやって敵を受け入れ、清濁合わせ呑むふところの深さも持っていて、さすが「大人」である。
(2023年7月13日)



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