7月3日は、内部告発サイト「ウィキリークス」の創設者、ジュリアン・アサンジが生まれた日(1971年)だが、神経学者、ルートヴィヒ・グットマンの誕生日でもある。「パラリンピックの父」である。

ルートヴィヒ・グットマン(Ludwig Guttman)は、1899年、当時ドイツだったシュレージエン州トスト(現在はポーランド)で生まれた。ユダヤ人家庭で、家業は酒造屋だった。
思春期のころに第一次世界大戦を経験したグットマンは、18歳のころから事故病院でボランティア活動をし、担ぎこまれる重症患者をみ、医学方面へ進学した。そして25歳のときに医学博士となった。当時はドイツ領だったヴロツワフ(現在はポーランド領)で彼は神経外科医として勤務し、大学で講義もおこなった。
1933年、彼が34歳になる年にドイツではヒトラーが首相となり、反ユダヤ人政策が推し進められだした。法律が変わり、グットマンは専門医師として医療に携われなくなり、ユダヤ人用病院の医長となった。1938年11月の「割れたガラスの夜」のポグロム(ユダヤ人に対する集団破壊行為)で、突撃隊などが主導し全国規模で暴力行為をおこなった際には、グットマンは誰彼かまわず患者を受け入れるよう指示を出し、多くの同胞を逮捕・強制収容所送りから救った。その翌年、ポルトガルへの治療旅行の指令がナチスから出たのをとらえ、彼は妻子を連れてドイツを出国、英国へ亡命した。彼は38歳だった。
難民保護団体が世話し、英国政府からの保護を受けられることになったグットマンは、戦時下の英国で、脳神経科に籍をおき、せき髄損傷の治療、研究に邁進した。戦地へ出撃していった爆撃機が攻撃を受けて破損して帰ってきて、不時着・墜落し、パイロットがせき髄を損傷する例が多かった。
戦争末期の1944年、バッキンガムシャー州のストーク・マンデヴィル病院にせき髄損傷治療専門の国立医療センターが開設されると、グットマンはそこの所長となった。彼は治療とともに、患者のリハビリテーションに力を入れた。
46歳のころ、英国に帰化したグットマンは、障害をもつ退役軍人のためのスポーツ競技大会を企画し、それは「ストーク・マンデヴィル競技会」として、1948年7月のロンドン五輪の開幕と同じ日に、彼の病院で開催された。参加者はみんなせき髄を損傷し、車椅子に乗った患者たちだった。これが後に「パラリンピック競技大会」として知られるようになる、障害者による競技大会の始まりである。
ストーク・マンデヴィル競技会はしだいに国際性を増しながら育ち、1960年のローマ五輪のときに、正式な夏季オリンピックと並行して開かれる国際スポーツ大会となった。
英国障害者スポーツ協会を設立し、大英帝国勲章司令官(CBE)を受け、ナイトの称号を得たグットマンは、国際対麻痺医学会を設立するなど、障害、リハビリに生涯関わり続けた後、心臓麻痺を起こした翌年の1980年3月に没した。80歳だった。

グットマンは1964年、東京五輪時のパラリンピックの際に来日している。
「失ったものを数えるな。残されたものを最大限に活かせ」
これは彼が傷痍軍人にかけたことばだが、健常者の胸にも強い痛みをもって響く。
(2023年7月3日)



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