5月13日は、米国の音楽家、スティーヴィー・ワンダー(1950年)が生まれた日だが、女帝、マリア・テレジアの誕生日でもある。フランス革命で処刑されたあのマリー・アントワネットの母親である。

マリア・テレジアは、1717年、神聖ローマ帝国(現在のオーストリア)のウィーンで生まれた。本名は、マリア・テレジア・ワルブルガ・アマリア・クリスティーナ・フォン・エスターライヒ。父親は、神聖ローマ皇帝カール6世だった。
現在のドイツ、オーストリアは当時、神聖ローマ帝国の領土だった。その帝国の皇帝を代々務めていたのが彼女のハプスブルク家で、ハプスブルク家はスペインの王室と婚姻関係を結び、一族でもってスペインとドイツ、オーストリアを支配する恰好になっていた。
マリアには兄がいたが、早く死んでしまい、ほかに男の兄弟がいなかった。父親が亡くなると、彼女が家督を継ぐことになった。ところが、いざ家督を継ごうとすると、たちまちあちこちから反対の声があがった。
「女が継ぐのは認めない。うちもハプスブルク家とは血がつながっている。うちのところは、うちの男子が継いで独立させてもらう」
ザクセン公、バイエルン公、スペイン王が反旗をひるがえした。彼らの後ろではフランスのブルボン家(ルイ王朝)が糸で引き、プロイセン王が混乱に乗じ乗りこんできた。
神聖ローマ帝国の女主人、マリア・テレジアは、領土について譲歩せず、戦争に踏み切った。これがオーストリア継承戦争である。彼女は子どもを身ごもっていたが、よく国民の士気を鼓舞し、財政面、外交面でも手腕を発揮して、よく戦時体制を支えた。
内政面では領土内に小学校を作り義務教育とし、徴兵制度を改革して、全国民に兵役義務を課し、兵隊に給料を出した。これにより国民の知的水準が上がり軍隊の士気が上がった。
政治に奔走しながら、彼女は男子5人を含む、16人の子を産んで育てた。男の子は各地の領地の王となり、娘たちは各国の大公や王のもとへ政略結婚で嫁にやられたが、そのなかで、フランスのルイ16世のもとへ嫁したのがマリー・アントワネットだった。長らく対抗関係にあったブルボン家とハプスブルク家とが婚姻関係で結ばれる、まさに歴史的結婚だったが、それも後にフランス革命という時代の大波に呑みこまれてしまう。母マリア・テレジアは娘マリー・アントワネットの行く末を心配しつつ、フランス革命前夜の1780年11月に没している。63歳だった。

マリア・テレジアの時代は、王族の子女はすべて国のための政略結婚で、個人的希望による恋愛結婚など許されなかった。しかし、マリア・テレジアは例外で恋愛結婚だった。小さいときから従兄のロレーヌ公子フランツ・シュテファンに夢中になり、ついに19歳のときに彼と結婚。2人のあいだに16人の子どもができた。
夫のフランツは、結婚の6年後に、神聖ローマ皇帝に即位し、フランツ1世となった。が、実際の政治は、妻のマリア・テレジアが仕切り、フランツはいつもかやの外だった。外国との交渉ごとに夫が出ても、妻の意向をうかがいながらで、妻がハンガリー女王として戴冠式に望んだ際には、夫の彼は式場へさえ入れてもらえなかった。やり手の女房の夫はいかに存在がかすむかという見本だが、フランツは周囲からの冷たい仕打ちに耐えて生き、1765年に没した。享年56歳。マリアが48歳のときのことだった。
夫の死を悲しんだマリアは、自分の衣裳をすべて宮廷の女官たちに分けてしまい、自分は以後、亡くなるまで喪服しか着なかったという。すぐれた指導力を発揮した政治家であるとともに、愛と自己を貫いた女性でもあった。
(2023年5月13日)



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