4月16日は、詩人アナトール・フランスが生まれた日(1844年)だが、映画界の天才チャールズ・チャップリンの誕生日でもある。
「チャーリー」の愛称で親しまれるチャールズ・スペンサー・チャップリン・ジュニアは、1889年、英国ロンドンで生まれた。父親は寄席芸人で、母親も舞台女優だった。チャールズが生まれて1年後に、両親は離婚し、彼は異父兄とともに母親に引き取られた。母親は当時、スター女優で、子ども二人を育てられるくらいの収入はあった。しかし、母親がのどを悪くし、声が割れて、ステージで歌が歌えなくなると、事態は急激に悪化した。彼女の声は治らず、舞台に立てなくなり、貯えは底をついた。
チャールズが7歳のとき、母は苦渋の決断を下し、母子三人は貧民院に入った。
9歳のとき、母親は精神病を発症した。ある日、彼女は近所の家をまわって、子どもたちへの誕生プレゼントだと言って、石炭のかけらをくばってまわりだしたという。精神病の原因は栄養障害にあるとされる。彼女は精神病院に入院した。彼ら兄弟は、裁判所の命令によって、アルコール中毒だった父親のもとに引き取られた。
母親は、その後、回復して、彼らはふたたび母子3人で暮らした。
チャールズが12歳のとき、父親が没し、母親はまた精神病を発症し入退院を繰り返すようになった(彼女の病気は完治せず、チャールズが39歳のとき、映画「サーカス」の撮影中に没した)。
学業を放棄したチャップリンは、新聞の売り子、印刷工、おもちゃ職人など、さまざま職業に就いて糊口をしのぎながら、俳優を目指した。12歳のとき、年齢を14歳といつわって俳優斡旋所に登録し、地方巡業する劇団の役を得た。チャップリンは、コミカルな役を演じて喝采を浴びた。それからも劇団を移りながら、さまざまな役出大当たりをとり、スター俳優となっていった。
劇団俳優としてフランス、カナダ、米国と巡業するうち、ハリウッドの映画プロデューサーにスカウトされ、24歳のとき、コメディの映画スタジオに入社した。
数多くのコメディ映画に出演し、チャップリンはまたたく間に人気俳優となった。映画会社を移籍するごとに、ギャラも急上昇していき、29歳のときには、100万ドルを超える年間契約を結ぶ大スターにまでのし上がった。
同じころ、チャップリンは、フェアバンクス、グリフィス監督らとともに、配給会社ユナイテッド・アーティスツを設立した。
以後、多くはみずから制作、監督、主演するという形で、「キッド」「給料日」「黄金狂時代」「サーカス」「街の灯」などの無声映画の名作を作った。
トーキー映画時代に入ると、「モダン・タイムス」「独裁者」「殺人狂時代」など、社会風刺、反ファシズム、反戦争の色合いの強い映画を撮り、1952年、赤狩り旋風が吹き荒れていた米国から、国外通報命令を受けた。彼は、以後スイスで暮らした。
1972年、83歳のとき、アカデミー賞授賞式に出席するため、20年ぶりに米国へ入国した。
1977年12月25日、クリスマスの朝、スイスの自宅で没した。88歳だった。
オーソン・ウェルズ、ウディ・アレン、北野武など、映画界にはマルチ・タレントを持った天才がときどき出現するが、制作、監督、俳優、脚本、作曲をすべて一流にこなしたチャップリンの多才ぶりを超える者はいない。空前絶後である。
(2023年4月16日)
●おすすめの電子書籍!
『映画監督論』(金原義明)
古今東西の映画監督30人の生涯とその作品を論じた映画人物評論集。監督論。人と作品による映画史。チャップリン、溝口健二、ディズニー、黒澤明、パゾリーニ、ゴダール、トリュフォー、宮崎駿、北野武、黒沢清などなど。百年間の映画史を総括する知的追求。
●電子書籍は明鏡舎。
https://www.meikyosha.jp

「チャーリー」の愛称で親しまれるチャールズ・スペンサー・チャップリン・ジュニアは、1889年、英国ロンドンで生まれた。父親は寄席芸人で、母親も舞台女優だった。チャールズが生まれて1年後に、両親は離婚し、彼は異父兄とともに母親に引き取られた。母親は当時、スター女優で、子ども二人を育てられるくらいの収入はあった。しかし、母親がのどを悪くし、声が割れて、ステージで歌が歌えなくなると、事態は急激に悪化した。彼女の声は治らず、舞台に立てなくなり、貯えは底をついた。
チャールズが7歳のとき、母は苦渋の決断を下し、母子三人は貧民院に入った。
9歳のとき、母親は精神病を発症した。ある日、彼女は近所の家をまわって、子どもたちへの誕生プレゼントだと言って、石炭のかけらをくばってまわりだしたという。精神病の原因は栄養障害にあるとされる。彼女は精神病院に入院した。彼ら兄弟は、裁判所の命令によって、アルコール中毒だった父親のもとに引き取られた。
母親は、その後、回復して、彼らはふたたび母子3人で暮らした。
チャールズが12歳のとき、父親が没し、母親はまた精神病を発症し入退院を繰り返すようになった(彼女の病気は完治せず、チャールズが39歳のとき、映画「サーカス」の撮影中に没した)。
学業を放棄したチャップリンは、新聞の売り子、印刷工、おもちゃ職人など、さまざま職業に就いて糊口をしのぎながら、俳優を目指した。12歳のとき、年齢を14歳といつわって俳優斡旋所に登録し、地方巡業する劇団の役を得た。チャップリンは、コミカルな役を演じて喝采を浴びた。それからも劇団を移りながら、さまざまな役出大当たりをとり、スター俳優となっていった。
劇団俳優としてフランス、カナダ、米国と巡業するうち、ハリウッドの映画プロデューサーにスカウトされ、24歳のとき、コメディの映画スタジオに入社した。
数多くのコメディ映画に出演し、チャップリンはまたたく間に人気俳優となった。映画会社を移籍するごとに、ギャラも急上昇していき、29歳のときには、100万ドルを超える年間契約を結ぶ大スターにまでのし上がった。
同じころ、チャップリンは、フェアバンクス、グリフィス監督らとともに、配給会社ユナイテッド・アーティスツを設立した。
以後、多くはみずから制作、監督、主演するという形で、「キッド」「給料日」「黄金狂時代」「サーカス」「街の灯」などの無声映画の名作を作った。
トーキー映画時代に入ると、「モダン・タイムス」「独裁者」「殺人狂時代」など、社会風刺、反ファシズム、反戦争の色合いの強い映画を撮り、1952年、赤狩り旋風が吹き荒れていた米国から、国外通報命令を受けた。彼は、以後スイスで暮らした。
1972年、83歳のとき、アカデミー賞授賞式に出席するため、20年ぶりに米国へ入国した。
1977年12月25日、クリスマスの朝、スイスの自宅で没した。88歳だった。
オーソン・ウェルズ、ウディ・アレン、北野武など、映画界にはマルチ・タレントを持った天才がときどき出現するが、制作、監督、俳優、脚本、作曲をすべて一流にこなしたチャップリンの多才ぶりを超える者はいない。空前絶後である。
(2023年4月16日)
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