ゴロ合わせで「珊瑚の日」の3月5日は、映画監督ピエル・パオロ・パゾリーニが生まれた日(1922年)だが、中国の政治家、周恩来(ヂョウオンライ)の誕生日でもある。

周恩来は、1898年に、中国の江蘇省淮安に生まれた。出身は清朝の官僚の家系だった。
彼が13歳のとき、辛亥革命。清朝が崩壊し、中華民国が成立した。
16歳のとき、第一次世界大戦勃発に乗じて、日本が山東、青島に侵入。当時、中国は、各地に軍閥が割拠し、国はばらばらだった。
19歳のとき、周恩来は留学のため来日し、21歳のときに帰国した。彼の帰国直後に、中国では五・四運動(排日運動)がはじまり、周恩来も学生を率いて排日運動に身を投じた。
周恩来はその後、仏国パリに留学し、中国共産党員として活動した後に帰国。
蒋介石による上海クーデターの折には、あやうく処刑されそうになったが、かろうじて脱出し、その後、彼は毛沢東の紅軍と合流し、長征に参加した。
1936年、38歳の周恩来は乞われて、上海事件で拘束されていた蒋介石に会いに行った。
蒋介石は、それまで「まず共産党勢力をたたき、国内を統一した後に、日本軍を排撃する」という方針を頑としてくずさなかったのだが、周恩来にとうとうと説かれ、ついに「なによりも先にまず排日を」という統一路線で、紅軍と協力することを承諾した。
これで「抗日」という中国国内の足並みがそろった。これは、日本でいえば、幕末の、坂本龍馬による薩長連合にも似た、歴史の大きな転換点である。
その翌年、蘆溝橋事件。日本軍による中国への侵略戦争が本格化していった。
1945年、日本は敗戦。中国は抗日戦争に勝利した。すると今度は、毛沢東の率いる中国共産党側と、蒋介石の率いる中国国民党側との内戦がはじまった。
内戦は共産党側の勝利に終わり、蒋介石の中国国民党は、台湾へ逃れて、中華民国として続くことになった。中国本土を制圧した毛沢東ら共産党は、1949年、中華人民共和国の成立を宣言した。周恩来は、国務院総理(首相)に就任した。
1966年、周恩来が68歳のとき、文化大革命がはじまった。文化大革命では、中国国内で一千万人以上が殺されたといわれるが、この間、毛沢東の妻である江青によって、周恩来は目のかたきにされ、養女を拷問で殺されるという不幸も経験したが、かろうじて首相の地位を守った。周恩来は、1976年1月、江青らのいやがらせを受けつづけるなか、膀胱ガンによって没した。77歳だった。江青ら四人組が失脚する9か月前のことだった。

周恩来は、破壊と残虐の限りを尽くした日本人に対して、寛恕の心をもって接した。
「日本戦犯を『鬼』から『人』に変えられるかどうか、中国文化の知恵と力が試されている。憎しみの連鎖を断ち切らなくてはならない」
そう説いた彼のおかげで、戦後の中国側でおこなわれたB級、C級戦犯の裁判において、ずいぶん多くの日本人戦犯が量刑を軽くされ、命を救われた。自国の街を完膚亡きまでに爆撃され、村を焼きはらわれ、同胞を強姦、虐殺され、人体実験に使われた、そういう敵国兵士に対し、こういう寛大な態度で接した人がいた事実を日本人は忘れてはならない。
何より、周恩来は品のいい人だった。共産党嫌いのカンボジアのシハヌーク国王も、周恩来だけは好きで、こう言ったそうだ。
「だって、彼のほうが私よりよっぽど王族らしいじゃないか」
(2023年3月5日)



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