2月10日は、ゴロ合わせで「ニットの日」だが、女性解放運動の旗手、平塚らいてうの誕生日でもある。

平塚らいてう(らいちょう)、本名、平塚明(はる)は、1886年、東京で生まれた。父親は元紀州藩士で、会計検査院の役人。らいてうは、3人姉妹の末娘だった。
「女子には女学校以上の学問は必要ない」という父を説き伏せて、日本女子大学校に17歳で入学。卒業後は、二松学舎、女子英学塾で学び、さらに成美女子英語学校で生田長江の教えを受けた。22歳のとき、文学講座仲間の男性と、栃木県の塩原温泉で心中未遂事件を起こし、スキャンダルとして報道された。そして、生田長江に女性だけの文芸誌作りをすすめられ、1911年、25歳のとき、雑誌「青鞜」を創刊。
「青鞜」は、「ブルーストッキング」から長江が命名したもの。英国では当時、青い長くつしたをはくのが、教養ある婦人に流行していたところからきているという。
飛ぶように売れたというこの雑誌の創刊の辞に、彼女ははじめてペンネームの「らいてう」を使い、こう書いた。
「元始、女性は実に太陽であった。真正の人であった。今、女性は月である。他によって生き、他の光によって輝く、病人のやうな蒼白い顔の月である。……云々」
この宣言の急進性は、ものすごい。仏国のボーヴォワールが、同じ意味の旨を述べた書『第二の性』がでたのが、1949年で、それより40年近く前に、すでにその認識を声高らかに宣言しているのである。
雑誌「青鞜」は賛否両論を巻き起こし、彼女の家には激励の手紙が舞い込むとともに、石もよく投げこまれ、大変だったらしい。らいてうは、自由恋愛を主張し、従来の結婚制度や「家」の制度からの脱却を訴え、母性保護に関しては、与謝野晶子を敵にまわして論争を繰り広げた。私生活では、26歳のとき、年下の画家の卵と恋に落ち、実家をでて同棲をはじめている。このとき、いったん身を引こうと考えた相手の青年が、らいてうに宛てた手紙に、つぎのような意味の一節があった。
「水鳥たちが暮らしているところへ一羽のツバメが飛んできて平和を乱した。若いツバメは池の平和のために去っていく」
これはマスコミに乗り、たいへん有名になった。以来、年下の男性の愛人のことを「若いツバメ」と呼ぶようになった。
「ツバメなら、春になれば帰ってくるでしょう」
と、らいてうは、青年との関係をつづけ、2児をもうけたが、ふるい結婚制度を否定する考えから、婚姻届けはださず、事実婚をつづけた。
彼女は、雑誌「青鞜」を伊藤野枝に託した後も、市川房枝らと婦人運動団体を設立し、婦人参政権や母性の保護の必要を訴えるなど、つねに社会に対して、フェミニズムの立場に立って発言しつづけた。胆のうのガンにより、1971年5月、85歳にて没。

女性に教育など必要ない、女性は男にしたがっていればいいのだ、とされていた時代。良妻賢母、それが唯一無二の女性の道だった時代。もちろん女性に選挙権などなかった時代に、すでに女性の恋愛の自由、母性の保護、女性の参政権を訴えていた新しい女性、それがらいてうである。若い人などのうちに、選挙の投票などいったことがないという人に会うと、ああ、平塚らいてうの魂が泣いているなあ、と感じる。
(2023年2月10日)



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