9月26日は、哲学者マルティン・ハイデガーが生まれた日(1889年)だが、米国の作曲家、ジョージ・ガーシュウィンの誕生日でもある。

ジョージ・ガーシュウィンは、1898年、米国ニューヨーク市のブルックリンで生まれた。ユダヤ系ロシアの移民の息子だった。13歳のころ、ピアノと和声を習ったジョージは、16歳のとき、商業高校を中退して、音楽出版社に就職した。
18歳のとき、最初の歌曲「彼女が欲しいときは……」を出版。
19歳で出版社を辞め、ショーのピアノ伴奏の仕事をする演奏家、作曲家として活動をはじめた。ガーシュウィンは作詞家と組んで、流行歌の作曲をするようになり、21歳のとき、作曲した「スワニー」が大ヒット。22歳で「誰かが誰かを愛してる」「私は楽園への階段を建てる」がヒット。彼の作った流行歌の楽譜は飛ぶように売れた。
ポピュラー音楽を作る一方で、ガーシュウィンはクラシック音楽の作曲もし、26歳のとき、「ラプソディ・イン・ブルー」を発表した。ジャズとクラシックを融合させたこのアメリカらしいムーディーなクラシック作品は、新鮮な響きをもって世界に鳴り響いた。
その後、ガーシュウィンは管弦楽曲「パリのアメリカ人」、フォーク・オペラ「ポーギーとベス」などを書いた後、1937年7月、脳腫瘍摘出の手術を受け、意識がもどらぬまま没した。38歳だった。

ガーシュウィンは30歳のとき、「ボレロ」の作曲者モーリス・ラヴェルが米国にやってきたとき、ラヴェルに会った。そのとき彼はラヴェルに、フランスの作曲法を教えてほしいと頼んだ。しかし、53歳のラヴェルはこう言って、やんわりとその申し出をことわった。
「なぜあなたは二流のラヴェルになんかなりたがるのですか? あなたはすでに一流のガーシュウィンだというのに(Why do you want to become a second-rate Ravel when you are already a first-rate Gershwin?)」

20年以上前「題名のない音楽会」というテレビ番組の公開収録を見に行ったことがある。司会は作曲家の黛敏郎で、その回はたまたまガーシュウィンをとり上げていた。
冒頭、オーケストラの演奏がはじまり、ある小節まできたとき、ステージ中央に置かれた、ソニーの盛田昭夫の家から借りてきたという自動ピアノに黛が歩み寄って、端のキーにポンッと触れた。すると、自動ピアノが始動し、オーケストラといっしょになって演奏をはじめた。それは「ラプソディ・イン・ブルー」という曲だった。
曲の演奏が終わると、司会の黛が出てきてこう言った。
「いまピアノを演奏したのは、作曲者のジョージ・ガーシュウィン本人であります」
ガーシュウィンが生きていた時代には、録音装置はなかったが、ピアノ演奏をパンチカードにして記録する手段はすでに考案されていて、ガーシュウィンがこの曲を弾いたのを記録したロールカードが残っているのだった。
だから、コンサートホールで、ジョージ・ガーシュウィンが自作をピアノで演奏するのを聴いたことがある、数すくない日本人のひとりということになる。これは、ステイタスである。
「ラプソディ・イン・ブルー」は何回聴いたか知れない。
(2022年9月26日)



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