1月8日は至上のロックスター、デヴィッド・ボウイが生まれた日(1947年)だが、日本を代表するファッションデザイナー、森英恵(もりはなえ)の誕生日でもある。

森英恵は1926年、島根県鹿足郡六日市町(現在の吉賀町)で生まれた。父親は医者だった。
小学生のころ、東京へ引っ越し、太平洋戦争中は学徒動員で工場で働いた。美術学校へ進学希望だった彼女は、医科を勧める父親と衝突したが、結局東京女子大に進んだ。
学生時代、空襲の続く東京で夏目漱石や三木清、『風と共に去りぬ』を読んでいた彼女は、卒業後、21歳の年に、学徒動員のときに知り合った元陸軍少佐と結婚した。
「一九四七年に東京女子大学を卒業してまもなく結婚した私は、二カ月もすると主婦業に飽き足らなくなった。夫は仕事に忙しかったため、時間のあった私は、女の子が生まれたら手づくりの服を着せてやりたいというような軽い動機で、住まいに近かった吉祥寺のドレスメーカー女学院の分校へ週五日通って、二年半ほど洋裁を学んだ。」(森英恵『グッドバイ バタフライ』)
敗戦の2年後、新婚主婦がはじめた服作りが、25歳のときには、東京の新宿に洋裁店「ひよしや」を開業していた。森の店は、まだ珍しかったショーウィンドウ、マネキンを飾り、喫茶店でのファッションショーを開催した。そして映画界の衣装を手がけるようになった。北原三枝、浅岡ルリ子、岩下志麻、吉永小百合の衣装を手がけた彼女は、28歳で銀座に店を構え「ハナエモリ」ブランドをスタート。そんななか、来日したピエール・カルダンの実技に衝撃を受ける。森は仏パリへ渡り、シャネルのメゾンで「目が飛び出るほどに高価だったオートクチュール」を作って帰宅した。そのときすでに海外進出を決意していた。
日本で成功しているのに、なぜそんなリスクをおかすのか? といぶかる周囲の声をものともせず、森は39歳で米国のコレクションに参加し、米国の高級デパート向けにオーダーメイド生産をはじめた。まだ「安かろう、悪かろう」の目で見られていたメイド・イン・ジャパンのドレスへの価値観を「モリハナエ」ブランドはくつがえした。蝶をあしらった優美なデザインは米ファッション界に「マダム・バタフライ」と衝撃を与えた。
合衆国で大成功を収めた森は、51歳のとき、ファッション界の頂上、仏パリのオートクチュールに挑み、アジア人としてはじめてフランス・オートクチュール組合の会員になった。そしてパリという完全アウェイの状況のなか、自分のはさみで道を切り開き、オートクチュール・コレクションに、プレタポルテ(高級既製服)コレクションも開いて活躍した。
華麗な色と形で知られるイヴニングドレスをはじめ、日本の感性をシルクサテンに結晶させた「網代(あじろ)」、カシミヤの布地をぜいたくに使った「裁ち出しの三つ編み」など、もはや「芸術」「発明」と呼ぶべき斬新なスーツやドレスを交えつつ、森はつねに新しいファッションスタイルを創作し続けた。
ハナエ・モリ・グループは世界的企業となり、1996年彼女はファッションデザイナーとしてはじめて文化勲章を、2002年には仏レジオンドヌール勲章オフィシエを受けた。2004年、78歳での秋冬コレクションを最後に、森英恵はパリのオートクチュール界から引退した。

米国で、そしてフランス・パリでトップデザイナーとして君臨し続けた森のキャリアは信じがたい東洋人の奇跡である。一主婦がふと思い立って子どものために服作りを学びはじめた、その延長線上にできた軌跡だと知ると、あらためて感慨深いものがある。
(2022年1月8日)



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