12月4日は、英国の歴史学者トーマス・カーライルの誕生日(1795年)だが、オーストリアの詩人リルケの誕生日でモある。

ライナー・マリア・リルケは、1875年、当時のオーストリア=ハンガリー帝国領プラハに生まれた。本名は、ルネ・カール・ヴィルヘルム・ヨーハン・ヨーゼフ・マリア・リルケ。父親は軍人だったが、病気で退職した後、鉄道会社に勤めた。母親は枢密顧問官の娘、ユダヤ系だった。母親は女の子を欲していて、ルネは小さいころ、女の子として育てられた。
10歳でルネは陸軍幼年学校に入学し、14歳で。士官学校に進んだ。が、内向的で詩を書く少年だったルネは、15歳で士官学校を中退。商業学校へ移ったが、こちらも水が合わず、中退。文学雑誌に詩を投稿して暮した。
親戚の援助を受け、ギムナジウム(大学受験を目指す高校)の生徒となり、このころ年上の女性と恋に落ち、彼女のために多くの詩を書いた。それらを集め、19歳の年に処女詩集『いのちと歌』を出版した。
プラハ大学に進学したルネは、ミュンヘン大学、ベルリン大学でも学び、文学、美術、哲学を修めた。そして、21歳のころ、既婚の女流作家ルー・アンドレアス・ザロメと知り合った。この、ニーチェに言い寄られ、フロイトの弟子になった女性に、リルケは圧倒的に影響を受けるようになった。ライナー・マリア・リルケと改名した彼は、彼女を慕って、彼女ら夫妻が引っ越すと、追いかけて近くに引っ越していき、いっしょにロシアへ旅行にでかけ、かの地でトルストイと会い、深い印象を受けた。
父親の経済的援助を受けていたリルケは、25歳のとき、北ドイツのヴォルプスヴェーデ村で知り合った女性彫刻家クララ・ヴェストホフと結婚したが、間もなく父親からの援助が打ち切られ、新婚家庭は急速に貧乏になっていった。
26歳のとき、リルケは請け負った評論『ロダン論』を書くため、フランス・パリへ行き、彫刻家オーギュスト・ロダンのアトリエに通いながら書き進めた。このとき、リルケはロダンのストイックな創作態度に強い影響を受けたと言われる。
パリでの自身の生活をベースに、リルケは小説『マルテの手記』を執筆。何年もかかったこの小説は彼が34歳のころに完成した。
ちょうどそのころ、欧州では第一次大戦が始まり、たまたまドイツのライプツィヒにいたリルケは、フランスへ帰れなくなり、パリに置いてきた私財を失った。そして、ドイツ軍に召集され、リルケは1年半ほど従軍した。
大戦が終わると、リルケはスイスへ行って住み、詩作や翻訳に打ちこんだ。
フランスの詩人・ポール・ヴァレリーと会い、彼の作品の翻訳をしながら、みずからもフランス語で詩作を試みていたリルケは、1926年12月、バラのトゲに刺された傷が原因と言われる急性白血病により、入院していたサナトリウムで没した。51歳だった。

自然と神の詩人、リルケの詩「冬」にこうある。
「まだすこしもスポオツの流行らなかつた昔の冬の方が私は好きだ。
人は冬をすこし怖がつてゐた、それほど冬は猛烈で手きびしかつた。(中略)
人は書きわづらつた、すつかり指がかじかんでしまつたので。
けれども、助力し合つて、夢みたり、失せやすい思ひ出をすこしでも引きとどめたりすることの、何んといふよろこび……」(堀辰雄訳、青空文庫)
(2021年12月4日)



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