4月17日は、金融財閥の創始者J・P・モルガンが生まれた筆者(1837年)だが、映画俳優ウィリアム・ホールデンの誕生日でもある。
ウィリアム・ホールデンは、1918年、米国イリノイ州オーファロンで生まれた。本名は、ウィリアム・フランクリン・ビードル。17世紀にやってきたイングランド移民の家系で、父親は産業用の化学研究者、母親は学校教師だった。ウィリアムには下に弟が2人いた。
ウィリアムが3歳のとき、一家はカリフォルニア州南パサディナへ引っ越し、ウィリアムはそこで育った。パサディナ・ジュニア・カレッジに進学したウィリアムは、ラジオの地方曲のラジオドラマに出演するようになり、19歳のとき、プランベート劇場で80歳の男の役を演じているのを、パラマウント映画の関係者にスカウトされ、映画界に入った。
21歳で主演した「ゴールデン・ボーイ」で注目され、いきなりアイドル・スターの仲間入りをし、「我等の町」「空の要塞」などの映画に出演した。
第二次大戦中は陸軍航空隊に所属して軍務についた(彼のすぐ下の弟は海軍のパイロットとして出征し戦死している)。戦後、ホールデンはスクリーンに復帰。
「サンセット大通り」1950年
「第十七捕虜収容所」1953年
「麗しのサブリナ」「喝采」「トコリの橋」1954年
「慕情」1955年
「戦場にかける橋」1957年
などに出演。「第十七捕虜収容所」ではアカデミー主演男優賞を受賞し、1950年代にはハリウッドでもっとも観客動員力のある男優のひとりとして活躍した。その後も、
「パリで一緒に」1963年
「タワーリング・インフェルノ」1974年
「ネットワーク」1976年
などに出演。プライベートでは動物保護に力を入れ、アフリカのケニアに広大な土地を購入し、そこを動物保護区にしてサファリ・クラブを共同経営した。
晩年、アルコール依存症におちいったホールデンは、1981年11月、カリフォルニア州サンタモニカのアパートの自宅でひとりでいるとき、敷物につまずき、チーク材のテーブルに前頭部をしたたかに打ちつけて倒れ、多量に出血した。4日後、彼は遺体となって発見された。倒れた直後、すくなくとも30分間ほどはホールデンは意識があったものとみられているが、彼が傷をそれほど深刻に受け止めていなかったか、あるいは助けを呼ぶことができなかったかして、倒れたままになったと推測されている。63歳だった。
ウィリアム・ホールデンほどもてた男はいない。彼は23歳で結婚し、2児をもうけた後、パイプカットして女遊びを続けた。ホールデンは友人を呼んではプールサイドでパーティーを開き、まわりで全裸の美女たちを泳がせ、オードリー・ヘップバーン、グレース・ケリー、キャプシーヌなどの映画女優たちと関係をもち、53歳で離婚した後も、24歳年下の女優ステファニー・パワーズとずっと恋愛関係にあった。
「第十七捕虜収容所」「慕情」「戦場にかける橋」など、戦争映画がよく似合った。
油と汗にまみれた笑顔が似合う、アメリカの匂いがぷんぷんする男優だった。
(2021年4月17日)
●おすすめの電子書籍!
『映画男優という生き方』(原鏡介)
世界の男性映画スターたちの生き様と作品をめぐる映画評論。ヴァレンティノ、マックイーン、石原裕次郎、シュワルツェネッガーなど男優たちの演技と生の真実を明らかにする。
●電子書籍は明鏡舎。
http://www.meikyosha.jp

ウィリアム・ホールデンは、1918年、米国イリノイ州オーファロンで生まれた。本名は、ウィリアム・フランクリン・ビードル。17世紀にやってきたイングランド移民の家系で、父親は産業用の化学研究者、母親は学校教師だった。ウィリアムには下に弟が2人いた。
ウィリアムが3歳のとき、一家はカリフォルニア州南パサディナへ引っ越し、ウィリアムはそこで育った。パサディナ・ジュニア・カレッジに進学したウィリアムは、ラジオの地方曲のラジオドラマに出演するようになり、19歳のとき、プランベート劇場で80歳の男の役を演じているのを、パラマウント映画の関係者にスカウトされ、映画界に入った。
21歳で主演した「ゴールデン・ボーイ」で注目され、いきなりアイドル・スターの仲間入りをし、「我等の町」「空の要塞」などの映画に出演した。
第二次大戦中は陸軍航空隊に所属して軍務についた(彼のすぐ下の弟は海軍のパイロットとして出征し戦死している)。戦後、ホールデンはスクリーンに復帰。
「サンセット大通り」1950年
「第十七捕虜収容所」1953年
「麗しのサブリナ」「喝采」「トコリの橋」1954年
「慕情」1955年
「戦場にかける橋」1957年
などに出演。「第十七捕虜収容所」ではアカデミー主演男優賞を受賞し、1950年代にはハリウッドでもっとも観客動員力のある男優のひとりとして活躍した。その後も、
「パリで一緒に」1963年
「タワーリング・インフェルノ」1974年
「ネットワーク」1976年
などに出演。プライベートでは動物保護に力を入れ、アフリカのケニアに広大な土地を購入し、そこを動物保護区にしてサファリ・クラブを共同経営した。
晩年、アルコール依存症におちいったホールデンは、1981年11月、カリフォルニア州サンタモニカのアパートの自宅でひとりでいるとき、敷物につまずき、チーク材のテーブルに前頭部をしたたかに打ちつけて倒れ、多量に出血した。4日後、彼は遺体となって発見された。倒れた直後、すくなくとも30分間ほどはホールデンは意識があったものとみられているが、彼が傷をそれほど深刻に受け止めていなかったか、あるいは助けを呼ぶことができなかったかして、倒れたままになったと推測されている。63歳だった。
ウィリアム・ホールデンほどもてた男はいない。彼は23歳で結婚し、2児をもうけた後、パイプカットして女遊びを続けた。ホールデンは友人を呼んではプールサイドでパーティーを開き、まわりで全裸の美女たちを泳がせ、オードリー・ヘップバーン、グレース・ケリー、キャプシーヌなどの映画女優たちと関係をもち、53歳で離婚した後も、24歳年下の女優ステファニー・パワーズとずっと恋愛関係にあった。
「第十七捕虜収容所」「慕情」「戦場にかける橋」など、戦争映画がよく似合った。
油と汗にまみれた笑顔が似合う、アメリカの匂いがぷんぷんする男優だった。
(2021年4月17日)
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世界の男性映画スターたちの生き様と作品をめぐる映画評論。ヴァレンティノ、マックイーン、石原裕次郎、シュワルツェネッガーなど男優たちの演技と生の真実を明らかにする。
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