10月17日は、仏国の社会思想家サン=シモン伯爵が生まれた日(1760年)だが、米ハリウッド女優、ジーン・アーサーの誕生日でもある。

ジーン・アーサーは、1900年に米国ニューヨーク州プラッツバーグで生まれた。本名は、グラディス・ジョージアナ・グリーン。上に三人の兄がいた。
引っ越しの多い幼少期を送った彼女は、15歳のときにニューヨーク市に引っ越してきた。
第一次世界大戦中、十代だった彼女は高校をやめ、速記のタイピストになった。彼女の父親と二人の兄は徴兵にとられた。
第一次大戦が終わり、二十代になったグラディスは、広告のモデルをへて、映画界入りした。彼女はスタジオと1年契約を結び、尊敬する歴史上の人物たち、フランスのジャンヌ・ダルクと英国のアーサー王から芸名を「ジーン・アーサー」とした。
女優ジーン・アーサーは、23歳で巨匠ジョン・フォード監督の無声映画「侠骨カービー」でデビュー、つぎの出演2作目で早くも主演女優役に抜擢された。しかし、2作目の監督に演技の才能がないと撮影3日目に降板させられた。彼女はハリウッドに見切りをつけて東部へ帰ろうとも考えたが、契約にしばられ、まだロサンゼルスにいなくてはならなかった。
それでB級西部劇に、2年間で20作品以上に出演した。ほとんどがロサンゼルス近郊の砂漠で、熱さと渇きと闘いながら演技するロケ現場で、ギャラは1本につき25ドルだった。
そのうちに、製作費のましな映画からも声がかかるようになり、27歳のころに出演した「幸運馬蹄騒動記」で注目を集め、彼女のギャラは一気に700ドルに跳ね上がった。
そこへトーキーの波が押し寄せてきた。音声入り映画の時代の到来である。
アーサーの声はしゃがれていて、トーキーに向かないと言われ、彼女はトーキー映画「カナリヤ殺人事件」「フーマンチュウ博士の秘密」「グリーン家の惨劇」に出演したが、ぱっとしなかった。大不況時代のなか、アーサーは映画会社との契約を切られた。
31歳で彼女はニューヨークへ戻り、演劇の世界で演技の勉強を積んだ。そして34歳でハリウッドへ戻ってきた。そして、36歳で主演したフランク・キャプラ監督作品「オペラハット」が大ヒットとなり、遅咲きながら、彼女の記念すべき出世作となった。
その後「平原児」「我が家の楽園」「スミス都へ行く」「歴史は夜作られる」「希望の降る街」などに出演した後、映画会社幹部との確執のためアーサーは44歳でハリウッドを去った。彼女の後釜に映画会社が担ぎ挙げた看板女優がリタ・ヘイワースである。
その後、彼女は映画出演の依頼を断りつづけたが、48歳のときの「異国の出来事」、53歳のときの西部劇「シェーン」には出演した。「シェーン」は大ヒット作となった。
アーサーはブロードウェイで「ピーター・パン」「ジャンヌ・ダルク」の舞台に立ち、東部の大学で、ドラマ・演劇の講義をした。教室で彼女は、窓の外の木を示し、あの木のように自然な演技を、と諭したという。彼女の教え子に、女優メリル・ストリープがいる。
1991年6月、彼女はカリフォルニア州モントレー郡で心不全のため、没した。90歳だった。

遅咲きの女優だった。ジーン・アーサーというと「オペラハット」「スミス都へ行く」が思い出される。やさしさと芯の強さをもち、育ちのよさを感じさせる庶民的なお嬢さん、それがアーサーのはまり役だった。それにしても、無声映画時代からトーキーを経て、カラー作品まで、長年にわたりトップ女優として映画産業の最前線で活躍した彼女の生涯は、文字通り生きた映画史である。映画界と四つに組んで奮闘した人生だった。
(2020年10月17日)



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