9月15日は、「ミステリーの女王」アガサ・クリスティが生まれた日(1890年)だが、格言の王ラ・ロシュフコー公爵の誕生日でもある。

ラ・ロシュフコー公爵ことフランソワ6世は、1613年、フランスのパリで生まれた。侯爵の位を継ぐ以前の名はマルシヤック公子。生家は10世紀までさかのぼれる由緒ある家柄で、仏西部のアングーモア地方に広大な領地をもつ屈指の大貴族だった。
領地にある広い城で少年時代をすごした公子は、14歳のころラ・ロッシェル包囲戦に参加し、結婚した。ルイ13世の治世下、パリの宮廷内では、王妃アンヌ・ドートリシュ側につき、時の宰相リシュリューから圧迫を受ける王妃を逃がそうとする陰謀に加担。失敗して、公子は24歳のとき、バスティーユ監獄に投獄された。8日後に釈放され、2年間の謹慎に服した。そして謹慎がとけた後、ふたたび戦場に出た。
公子が29歳のとき、リシュリューは後任の宰相をマザランに指名して没した。マザランはイタリア人で、リシュリュー以上に陰険狡猾と言われる人物だったが、マルシヤック公子はこの新宰相とも敵対し「フロンドの乱」に加わった。
1648年、公子が35歳のときにはじまった「フロンドの乱」は、中央集権化を強める王室側に対するフランス封建貴族による最後の反乱だった。「フロンド」とは投石器の意味で、パリの民衆がマザラン邸をめがけて投石したことを指している。
内乱中の1650年、公子が36歳のとき、父のフランソワ5世が没し、公子はフランソワ6世、ラ・ロシュフコー侯爵となった。
フロンドの乱は各地に飛び火して断続的に続き、一時は宰相マザランが窮地に追い込まれ、2度にわたって外国へ亡命するという局面もあった。が、終わってみれば、反乱側が分裂し自滅する形で鎮まった。ラ・ロシュフコー侯爵は戦場で負傷し、戦線から離脱していた。40歳になっていた侯爵は、大赦によって反逆罪は免れたが、新国王ルイ14世の信任は薄く、彼は政治の表舞台から遠ざかった。
フロンドの乱の結果、封建貴族の勢力は衰退し、中央集権が進み、「朕(ちん)は国家なり」と言ったルイ14世の絶対王政の時代へとフランスは突き進んでゆく。
以後、社交界の人となったラ・ロシュフコー侯爵は、みずからの人生経験で得た格言をまとめた書『マキシム(箴言集)』を書き、51歳のときに出版した。辛辣さとユーモアに飛んだこの書は好評で、侯爵の生前だけで5版を重ね、いまも世界中で愛読されている。
侯爵はラ・ファイエット夫人の友人で、彼女が名作『クレーブの奥方』を執筆するにあたり、励ましと助言を与えた。ラ・ロシュフコーは、1680年3月に没した。66歳だった。

ラ・ロシュフコーは、デュマの小説『三銃士』の時代に生きた貴族で、『三銃士』の小説中、ダルタニアンや三銃士とともに王妃側に立って暗躍するシュヴルーズ侯爵夫人は実在の人物で、ラ・ロシュフコー侯爵の愛人だった。ラ・ロシュフコーの『マキシム』は言う。

「わが身にそぐわない誉め言葉より、わが身に役立つ非難の方を感謝する、ここまで賢明な人はまずいない。」

「たまに自惚(うぬぼ)れることでもなければ、この世にそう楽しいこともあるまい。」(吉川浩訳『人生の知恵──省察と箴言──』角川文庫)
(2018年9月15日)



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