1月20日は、映画「甘い生活」を撮ったフェデリコ・フェリーニ監督が生まれた日(1920年)だが、俳人の尾崎放哉の誕生日でもある。

尾崎放哉は本名を、尾崎秀雄といい、1885年に鳥取で生まれた。武士の家系で、父親は裁判所の書記官をしていた。
十代のなかばから俳句を作っていた尾崎は、成績優秀で、一高、東大法学部と進んで、大学卒業後は、通信社をへて、26歳のとき、保険会社に入社した。
エリートコースを進んで順調に昇進していたが、しだいに俳句に入れ込みだし、勤務態度が悪くなり、36歳のときに会社を辞めた。
その後、朝鮮半島の保険会社に勤め、満州に渡った後、38歳のとき、からだを悪くして帰国し、しばらく京都のコミュニティー「一燈園」で暮らした。
39歳からは、京都や神戸、福井県小浜市などの寺を転々とし、寺の雑用をする寺男として暮らし、40歳のとき、小豆島の寺の寺男となり、その地で1926年4月、肋膜炎のため没した。41歳だった。

尾崎放哉は、五七五の定型にこだわらない自由律の俳句を詠んだ人である。
尾崎放哉は一面、自堕落で、わがままで、独善的で、お金を無心したがり、酒飲みで、酒癖が悪く、ひねくれたところのある、およそつきあいにくい人だったらしい。
学問はできたのだろうが、そうした性格的な欠点がわざわいして、極貧のなかで俳句を詠み、極貧のなかで死んだ。
生涯にわたって荻原井泉水を師と仰ぎ、頼った。小豆島の寺も荻原が紹介したらしい。
ひねくれたはみだし者だったようだけれど、俳句はすっきり冴えている。

「こんなよい月を一人で見て寝る」

「うつろの心に眼が二つあいている」

「白々あけて来る生きていた」

ソクラテスやランボー、ゴーギャン、ゴッホなども、社会生活の上では破綻的だった。『月と六ペンス』ではないが、こうした人々の残した作品や思想を思うとき、人生の価値とはいったいなんだろうと考えさせられる。
放哉がみずからすすんで孤独を求めて生きた挙げ句に、詠んだのが、つぎの代表作である。

「咳をしても一人」

横光利一が、フランンス象徴主義の詩人マラルメについて言ったことばに通じる。
「マラルメは、たとえ全人類が滅んでもこの詩ただ一行残れば、人類は生きた甲斐がある、とひそかにそう思っていたそうですよ。それが象徴主義の立ち姿なんですからね。」(横光利一『夜の靴』講談社文芸文庫)
(2018年1月20日)



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