3月19日は、『アラビアン・ナイト』を翻訳した探検家バートンが生まれた日(1821年)だが、同じく探検家のリヴィングストンの誕生日でもある。

デイヴィッド・リヴィングストンは、1813年、英国スコットランドのブランタイアで生まれた。8人きょうだいの上から2番目で、彼の父親は紅茶のセールスマンだった。貧窮した家の経済状態により、デイヴィッドは10歳のときから綿紡績工場で働きだし、働きながらよく本を読み勉強した。苦学して神学と医学を修め、宣教師となった。
27歳のとき、リヴィングストンは、船で南アフリカ(当時は英国領)へ渡った。アフリカ大陸の最南端であるケープタウンに上陸し、そこから大陸を北へ進んでアフリカの奥地を探検した。彼は天体観測による測量術を習得していて、アフリカの正確な地図を作ることができた。彼の探検、調査によって、当時、ヨーロッパにはまったく知られていなかったアフリカ大陸の地理や人文の事情が明らかになった。
ライオンに襲われ、飢え死にしかけ、熱病や赤痢におかさながらも、43歳になる年に、アフリカ大陸横断を達成。資金がなくなり、ひとまず英国へもどった。
16年ぶりに踏んだ英国の地では、英雄として迎えられ、彼が書いたアフリカ探検記はベストセラーになった。しかし、宣教師協会から、布教に熱心でないとして除名された。
宣教師でなくなったリヴィングストンは43歳のとき、今度は英国政府から任命された探検隊のリーダーとして、再度アフリカへ渡った。このときは約6年間、アフリカを探検し、妻をマラリアで亡くすなど数々の苦難にあった後、帰国命令を受け、いったん帰国した。
そして52歳のとき、王立地理協会から「ナイル川の水源を見つける」という使命をおびて、またアフリカへ旅立った。この三度目のアフリカ探検は、インド洋に面したタンザニアから入ったが、しばらくすると消息が途絶えた。
「リヴィングストンは死んだ」というニュースが世界を駆けめぐった。これを受け「ニューヨーク・ヘラルド」紙の特派員ヘンリー・スタンリーが、捜索隊を編成してアフリカ入りし、タンザニアの奥地で、やせ衰えたリヴィングストンをついに発見した。
「リヴィングストン博士、ですね?」(Dr. Livingstone, I presume?)
リヴィングストンが消息を断って約6年がたっていた。

リヴィングストンは、まだナイルの水源をさがすからと、帰国のすすめに応じず、特派員を帰らせた。そして、1872年5月、現在のザンビアの村でマラリアと赤痢による内出血のため、没した。59歳だった。彼の心臓は抜きとられて現地で埋葬され、遺体は英国へ送られ、腕に残ったライオンによる傷跡によって本人と確認された後、埋葬された。

リヴィングストンはアフリカ大陸を進みながら、現地人を奴隷として扱う奴隷売買を嫌悪し、現地で目の当たりにした奴隷虐待や虐殺の実情を訴え、告発する手紙を本国に送りつづけた。彼のそうした努力が功を奏し、本国の命令によって奴隷市場が閉鎖されたりしたが、奴隷貿易は完全にはなくならなかった。
一方で、密林のなかで風土病と飢餓に苦しむリヴィングストンを助けてくれたのは、アフリカの奥地に入りこんでいた奴隷商人たちだった。また、リヴィングストンが作った精密な地図による交易ルートをもっともよく活用したのも、奴隷商人たちだった。
この矛盾にリヴィングストンは苦悩したという。良識と気骨のスコットランド人だった。
(2017年3月19日)



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