7月29日は、外交官の重光葵(しげみつまもる)の誕生日でもある。敗戦時、東京湾上の米軍艦ミズーリ号の甲板で、シルクハット、杖をついた姿で降伏文書に署名した人物である。

重光葵は、1887年に大分の大野で生まれた。父親は漢学者で、大分県庁の役人だったが、葵が3歳のとき、父親は官職を辞して、晴耕雨読の生活に入った。家計はたちまち傾き、家事や、子どもたちの世話、相談相手など家の切り盛りはすべて母親が担い、さらに彼女は針仕事をし、工場に働きに出て家計を支えた。
葵はなんとか進学し、24歳で東京帝国大学の法学部を出た。卒業後、外交官試験に合格し、25歳の年にドイツに渡り、外交官補として着任した。以後、英国、米国など欧米の列強国を渡り歩き、第一次大戦集結後のパリ講和会議にも出席した。
1931年、満州で日本の関東軍が暴走し、満州事変がはじまった。そんななか、重光は45歳の年に、上海に公使として赴任した。すると、上海でも日本軍と中国軍の衝突が勃発。4月29日の天長節の式典会場に爆弾が投げこまれた。会場にいた重光は重傷を負い、病院へ駆けつけた警察署長に向かって、彼は公使としてこう命令した。
「『犯人は取り逃がさぬよう厳重捕縛は必要だが、これに虐待暴行を加うる如きは一切厳重に取り締まってもらいたい』との厳命を下した。私はこのような列国環視の中にあっては日本は飽くまでも大国らしく男性らしく行動したいと考えた。」重光葵『外交回想録』(中公文庫)
重光は右足を切断した。が、本人は、大隈重信を思い出し、自分もこれから本物になるのだと前向きにとらえたという。重光は、恩賜の義足に杖をついて欧州各国を駆けまわり、各国首脳と意見を交換し、欧州の状況を日本へ伝え、欧州ではじまったヒトラーたちの戦争に日本はけっして巻き込まれてはならない旨を力説したが、一方で、アジアでは日本軍が暴走し、外相になった松岡洋右は、外務省の役人を大量解雇し、日独伊三国同盟を結んでしまった。ドイツ軍による空襲下のロンドンで、重光はこれから敵になる英国首相チャーチルと涙の握手をして別れてきた。
53歳の重光が帰国すると、すぐに日米開戦。重光は戦時下の外務大臣となり、軍部主導による冷徹なアジア支配を穏健化するよう努力し、終戦工作をおこなった。
58歳で1945年の敗戦。降伏文書の調印の後、重光は、連合軍司令部のマッカーサー元帥が日本に軍政を敷く布告を出すとの報を聞き、あわててマッカーサーに面会を求め、軍政は敷かず、日本政府を通して占領政策を実行するべき旨を力説して、ついに元帥を納得させた。これは日本の戦後を決定的に変えた大転換点である。
重光は東京裁判でA級戦犯として禁固刑7年の実刑判決を受けた。服役、釈放、公職追放解除後は、国会議員となり、鳩山内閣の副総裁・外務大臣として国際交渉の現場に復帰し、日ソ間の国交正常化交渉や北方領土返還交渉、日本の国際連合加盟に尽力。69歳のとき、米ニューヨークの国際連合で、日本代表として加盟受諾演説をおこない、その翌月、1957年1月に没した。69歳だった。

重光の人生を現代に振り返る。すると、松岡洋右といっしょに満州国で権力をふるった岸信介の孫が総理大臣の椅子にすわり、吉田茂の孫が副総理の座にいる今日、人は歴史に学ぶか、と日本人はいま問われているのだと強く感じられる。

「葵」の名の由来について問われ、漢学者の父親は息子にこう説明したそうだ。
「葵は向日葵(ひまわり)のことだ。向日葵は、足もとの小さな草花を守る花である。だからマモルと読む。花のなかで唯一、男性の花で、誠実の象徴とされている」(福冨健一『重光葵 連合軍に最も恐れられた男』講談社)
(2015年7月29日)




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