6月2日は、錬金術師カリオストロが生まれた日(1743年)だが、作家、小田実の誕生日でもある。

小田実は、1932年、大阪で生まれた。父親は大阪市の職員だった。13歳で敗戦を迎えた小田実は、高校生のときに『明後日の手記』、大学生のとき『わが人生の時』と、長編小説を書く文学青年だった。しかし、彼は行き詰まりを感じ、自分の思考に風穴をあけるため、米国行きを決意。東大文学部の言語科を卒業後、26歳のときに米国のフルブライト基金の試験にパスして米国へ留学した。
留学後は、米国内各地のほか、メキシコ、ヨーロッパ、中近東、アジアと世界を一周し、その記録『何でも見てやろう』を出版。大ベストセラーとなった。
以後、行動する作家として活躍。平和運動家としても活動し、ベトナム戦争に際して「ベトナムに平和を! 市民連合(ベ平連)」「日本はこれでいいのか市民連合」を結成した。テレビの討論番組にも出演し、幅広い分野で発言した。
2007年7月、東京の病院で、胃がんのため没。75歳だった。
小説に『アメリカ』『羽なければ』『HIROSHIMA』『「アボジ」を踏む』『玉砕』、評論に『人間みなチョボチョボや』『ゆかりある人びとは…』『ひとりでもやる、ひとりでもやめる』などがある。

生前、小田実はテレビのインタビューに答えて、1945年8月14日の大阪大空襲の記憶を語っていた。この敗戦の前日に、大阪上空に約150機のB29爆撃機の大編隊があらわれ、爆弾の雨を降らせた。大阪大空襲である。空襲の後、爆撃機はビラをまいていき、小田少年はそれを拾って読んだという。ビラには日本語で、日本が降伏したと書かれていた。その20時間後に、昭和天皇による、日本の敗戦を告げるラジオ放送があった。では、前日のあの空襲は、いったいなんだったのか。人々はなんのために死んだのか。小田はその無意味さに疑問を感じ、それが自分の原点になったと言っていた。

小田実は言っている。
「私が言いたいことは、ものみな変わる、ということである。すでにして、日本においても『バブル』はとっくの昔に崩壊してしまった。これからは日本の経済も下り坂にむかうと誰もが今考えている。(中略)もっとかんじんなことは、これからの日本、世界のことを、そうした上り坂、下り坂の見方でとらえないことだ。もっと人間にとって重要な見方がある」(『ゆかりある人びとは…』春秋社)
まったく同感である。
(2015年6月2日)



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