1932年に五・一五事件があった5月15日は、芸術家ジャスパー・ジョーンズが生まれた日(1930年)だが、女性運動家、市川房枝の誕生日でもある。
市川房枝は、1893年、愛知県の現在の一宮市で生まれた。生家は農家で、房枝は7人きょうだいの三女だった。彼女の父親は、子どもたちに男女とも教育、進学を奨励する当時としては進歩的な考えをもっていたが、反面、怒りだすと拳骨や薪(まき)で妻を殴りつける封建時代的な一面をあわせもった男性で、小さいころの房枝は母親が殴られると、泣きながらあいだに入ってかばった。
小学校の高等科を出た房枝は、15歳になる年に上京してミッション・スクールに入った。それから彼女は、故郷の村の代用教員、師範学校の生徒、新聞記者、株の仲買人の事務員など、さまざまな職業を転々とした後、キリスト教系の労働団体に関わり、青鞜社の平塚らいてうと合流し、26歳のとき、日本初の婦人団体である新婦人協会を設立。理事となって、女性の権利拡大に向けて活発に運動をはじめた。
当時の日本では、女性の選挙権、被選挙権はもちろんのこと、女性は政党に入ることも、政治演説会などの集会に参加することすら禁止されていた。
市川はこれを変革し、婦人参政権を訴え、それをずっと続けた。
市川が38歳だった1931年に満州事変がはじまり、言論弾圧、思想統制と、日増しに強まっていく軍国主義の空気のなかで、もともと反戦・非戦論者だった市川は、運動の灯を絶やさないために、しだいに体制側に懐柔され、しだいに戦時体制へ取り込まれた。
彼女の機関誌「婦選」は「女性展望」と誌名を変え、市川は国民精神総動員中央連盟の委市川が52歳だった1945年に戦争が終わると、彼女はただちに婦人団体「新日本婦人同盟」を結成した。そうして、同年の12月に、日本を占領した連合軍総司令部(GHQ)の指導のもとで衆議院議員選挙法の改正がおこなわれ、男女普通選挙、つまり婦人参政権がついに実現した。
翌1946年に衆議院議員総選挙では39人の女性議員が誕生したが、そのなかに市川房枝の名前はなかった。彼女は立候補していず、有権者名簿に名前がなかったため投票もできなかった。戦争協力者として、市川は公職追放となり、婦人団体から身を引いた。
そして57歳のとき、追放解除された後は、公娼制度復活反対、売春禁止、再軍備反対を訴えた。
60歳になる年に、参議院議員となり、無所属議員の集まりである第二院クラブに所属し、政治の不正追及などに活躍した。
そして85歳のとき、皇室から勲章の授与を打診されたが、辞退した後、1981年2月、市川房枝は心筋梗塞のため、没した。87歳だった。参議院本会議では現職の参議院議員だった市川への哀悼演説がおこなわれた。
市川房枝の選挙事務所のスタッフから巣立った政治家に、後の首相、菅直人がいる。
日本の女性参政権は、日本人自身の手によってはついに成らず、日本を占領した米国側によって与えられた権利である。進駐軍がやってこなかったら、日本の男性たちは、いまだに女性の参政権を認めていなかったのかもしれない。
市川房枝の業績には毀誉褒貶があるだろうけれども、いずれ、彼女たち日本の女性運動家たちの奮闘は、仰ぐべきものにちがいない。
(2015年5月15日)
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『誇りに思う日本人たち』(ぱぴろう)
誇るべき日本人三〇人をとり上げ、その劇的な生きざまを紹介する人物伝集。松前重義、緒方貞子、平塚らいてう、是川銀蔵、住井すゑ、升田幸三、水木しげる、北原怜子、田原総一朗、小澤征爾、鎌田慧、島岡強などなど、戦前から現代までに活躍した、あるいは活躍中の日本人の人生、パーソナリティを見つめ、日本人の美点に迫る。すごい日本人たちがいた。
●電子書籍は明鏡舎。
http://www.meikyosha.com

市川房枝は、1893年、愛知県の現在の一宮市で生まれた。生家は農家で、房枝は7人きょうだいの三女だった。彼女の父親は、子どもたちに男女とも教育、進学を奨励する当時としては進歩的な考えをもっていたが、反面、怒りだすと拳骨や薪(まき)で妻を殴りつける封建時代的な一面をあわせもった男性で、小さいころの房枝は母親が殴られると、泣きながらあいだに入ってかばった。
小学校の高等科を出た房枝は、15歳になる年に上京してミッション・スクールに入った。それから彼女は、故郷の村の代用教員、師範学校の生徒、新聞記者、株の仲買人の事務員など、さまざまな職業を転々とした後、キリスト教系の労働団体に関わり、青鞜社の平塚らいてうと合流し、26歳のとき、日本初の婦人団体である新婦人協会を設立。理事となって、女性の権利拡大に向けて活発に運動をはじめた。
当時の日本では、女性の選挙権、被選挙権はもちろんのこと、女性は政党に入ることも、政治演説会などの集会に参加することすら禁止されていた。
市川はこれを変革し、婦人参政権を訴え、それをずっと続けた。
市川が38歳だった1931年に満州事変がはじまり、言論弾圧、思想統制と、日増しに強まっていく軍国主義の空気のなかで、もともと反戦・非戦論者だった市川は、運動の灯を絶やさないために、しだいに体制側に懐柔され、しだいに戦時体制へ取り込まれた。
彼女の機関誌「婦選」は「女性展望」と誌名を変え、市川は国民精神総動員中央連盟の委市川が52歳だった1945年に戦争が終わると、彼女はただちに婦人団体「新日本婦人同盟」を結成した。そうして、同年の12月に、日本を占領した連合軍総司令部(GHQ)の指導のもとで衆議院議員選挙法の改正がおこなわれ、男女普通選挙、つまり婦人参政権がついに実現した。
翌1946年に衆議院議員総選挙では39人の女性議員が誕生したが、そのなかに市川房枝の名前はなかった。彼女は立候補していず、有権者名簿に名前がなかったため投票もできなかった。戦争協力者として、市川は公職追放となり、婦人団体から身を引いた。
そして57歳のとき、追放解除された後は、公娼制度復活反対、売春禁止、再軍備反対を訴えた。
60歳になる年に、参議院議員となり、無所属議員の集まりである第二院クラブに所属し、政治の不正追及などに活躍した。
そして85歳のとき、皇室から勲章の授与を打診されたが、辞退した後、1981年2月、市川房枝は心筋梗塞のため、没した。87歳だった。参議院本会議では現職の参議院議員だった市川への哀悼演説がおこなわれた。
市川房枝の選挙事務所のスタッフから巣立った政治家に、後の首相、菅直人がいる。
日本の女性参政権は、日本人自身の手によってはついに成らず、日本を占領した米国側によって与えられた権利である。進駐軍がやってこなかったら、日本の男性たちは、いまだに女性の参政権を認めていなかったのかもしれない。
市川房枝の業績には毀誉褒貶があるだろうけれども、いずれ、彼女たち日本の女性運動家たちの奮闘は、仰ぐべきものにちがいない。
(2015年5月15日)
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