10月17日は、仏国の社会思想家、サン=シモン伯爵が生まれた日(1760年)だが、ハリウッド女優、リタ・ヘイワースの誕生日でもある。
自分はリタ・ヘイワースの代表作と言われる映画「ギルダ」を観たことがある。さすが一世を風靡したセクス・シンボルといわれた女優で、華のある人だった。
リタ・ヘイワースは、1918年、米国ニューヨーク市のブルックリンで生まれた。本名は、マルガリータ・カーメン・カンシーノ。両親はカトリックで、ダンサーだった。「ヘイワース」は母親の姓である。マルガリータは3歳半のころから毎日ダンスの練習をさせられ、6歳のときには人前で踊り、8歳のときには短編映画に出演した。
彼女が9歳のころ、一家は西海岸のハリウッドへ引っ越し、父親はダンス教室を開いた。引っ越した2年後に大恐慌がはじまり、父親の新事業はたちまち傾いた。窮した父親は、娘のマルガリータをダンスのパートナーにして、メキシコの国境の街、ティワナのクラブでダンサーとして勤めた。米国の法律では、マルガリータは労働するにはまだ若すぎ、ティワナはロサンゼルスの米国人が大勢遊びにやってくる街だったからである。
高校へ通いながら、クラブで踊っていたマルガリータを、たまたまフォックス映画社の社長が見て、気に入り、彼女はフォックス社と半年の短期契約を結んだ。彼女は芸名を「リタ・カンシーノ」として何本かの映画に出たが、ぱっとしなかった。
その後、コロンビア映画に移り、髪を暗い赤に染め、芸名を「リタ・ヘイワース」と改めると、彼女の人気はにわかに高まりだし、コロンビアは彼女を新しいスターとして売り出しはじめた。そうして「血と砂」「踊る結婚式」「ギルダ」などに主演し、ヘイワースは押しも押されぬハリウッドの看板スターとなった。
「セックス・シンボル」と呼ばれた彼女はこうコメントしている。
「ほかのみんなはヌード・シーンを撮るけれど、わたしは撮らなかった」
私生活では、ヘイワースは18歳から43歳までのあいだに5度結婚している。彼女が結婚した相手は、横暴だったり、暴力的だったり、彼女を経済的に食い物にしたりする男たちで、いずれの結婚も5年以上は続かなかった。スター女優としてばく大なギャラを得ていた彼女は、5度目の離婚をしてみると、二人の娘を抱えた一文なしの母親になっていた。
アルコール依存症だったと言われるヘイワースは、54歳のころ、経済的に困り、ふたたび映画に出演した。しかし、このころにはせりふが覚えられず、彼女が出る場面は、彼女が一行のセリフを言うごとにカットしなくてはならない状況だった。アルコール依存もあったが、アルツハイマー病のせいだった。1987年5月、ヘイワースはアルツハイマー病により、ニューヨークで没した。3カ月ほど前から昏睡状態に陥っていた。
「ギルダ」を観て、自分は、現代では「セックス・シンボル」とは呼べないような、とても健康的な印象を受けた。でも、彼女が人気があったのはわかる。すごく魅力的で、存在感が大きい、大輪の花という感じがした。彼女の人生は極端な幸不幸の連続だったけれど、立派な人生を生きたと自分は思う。折々の自分の心と状況に誠実に生きた、いい挑戦だったと思う。
ヘイワース自身は、こうコメントしている。
「わたしの人生の宝石と言えるのは、フレッド・アステアと撮った作品だけよ」
「ザ・ダンサー」アステアといっしょに踊りまくったのは、小さいときからダンサーとして鍛えられた彼女にとって、格別な思い出なのにちがいない。自分はアステアとの共演作「踊る結婚式」「晴れて今宵は」も、ぜひ観てみたいと思っている。
(2013年10月17日)
●おすすめの電子書籍!
『6月生まれについて』(ぱぴろう)
マリリン・モンロー、アンジェリーナ・ジョリー、ゲバラ、マッカートニー、本田圭佑、太宰治など6月誕生の30人の人物論。6月生まれの宿命を解明。
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自分はリタ・ヘイワースの代表作と言われる映画「ギルダ」を観たことがある。さすが一世を風靡したセクス・シンボルといわれた女優で、華のある人だった。
リタ・ヘイワースは、1918年、米国ニューヨーク市のブルックリンで生まれた。本名は、マルガリータ・カーメン・カンシーノ。両親はカトリックで、ダンサーだった。「ヘイワース」は母親の姓である。マルガリータは3歳半のころから毎日ダンスの練習をさせられ、6歳のときには人前で踊り、8歳のときには短編映画に出演した。
彼女が9歳のころ、一家は西海岸のハリウッドへ引っ越し、父親はダンス教室を開いた。引っ越した2年後に大恐慌がはじまり、父親の新事業はたちまち傾いた。窮した父親は、娘のマルガリータをダンスのパートナーにして、メキシコの国境の街、ティワナのクラブでダンサーとして勤めた。米国の法律では、マルガリータは労働するにはまだ若すぎ、ティワナはロサンゼルスの米国人が大勢遊びにやってくる街だったからである。
高校へ通いながら、クラブで踊っていたマルガリータを、たまたまフォックス映画社の社長が見て、気に入り、彼女はフォックス社と半年の短期契約を結んだ。彼女は芸名を「リタ・カンシーノ」として何本かの映画に出たが、ぱっとしなかった。
その後、コロンビア映画に移り、髪を暗い赤に染め、芸名を「リタ・ヘイワース」と改めると、彼女の人気はにわかに高まりだし、コロンビアは彼女を新しいスターとして売り出しはじめた。そうして「血と砂」「踊る結婚式」「ギルダ」などに主演し、ヘイワースは押しも押されぬハリウッドの看板スターとなった。
「セックス・シンボル」と呼ばれた彼女はこうコメントしている。
「ほかのみんなはヌード・シーンを撮るけれど、わたしは撮らなかった」
私生活では、ヘイワースは18歳から43歳までのあいだに5度結婚している。彼女が結婚した相手は、横暴だったり、暴力的だったり、彼女を経済的に食い物にしたりする男たちで、いずれの結婚も5年以上は続かなかった。スター女優としてばく大なギャラを得ていた彼女は、5度目の離婚をしてみると、二人の娘を抱えた一文なしの母親になっていた。
アルコール依存症だったと言われるヘイワースは、54歳のころ、経済的に困り、ふたたび映画に出演した。しかし、このころにはせりふが覚えられず、彼女が出る場面は、彼女が一行のセリフを言うごとにカットしなくてはならない状況だった。アルコール依存もあったが、アルツハイマー病のせいだった。1987年5月、ヘイワースはアルツハイマー病により、ニューヨークで没した。3カ月ほど前から昏睡状態に陥っていた。
「ギルダ」を観て、自分は、現代では「セックス・シンボル」とは呼べないような、とても健康的な印象を受けた。でも、彼女が人気があったのはわかる。すごく魅力的で、存在感が大きい、大輪の花という感じがした。彼女の人生は極端な幸不幸の連続だったけれど、立派な人生を生きたと自分は思う。折々の自分の心と状況に誠実に生きた、いい挑戦だったと思う。
ヘイワース自身は、こうコメントしている。
「わたしの人生の宝石と言えるのは、フレッド・アステアと撮った作品だけよ」
「ザ・ダンサー」アステアといっしょに踊りまくったのは、小さいときからダンサーとして鍛えられた彼女にとって、格別な思い出なのにちがいない。自分はアステアとの共演作「踊る結婚式」「晴れて今宵は」も、ぜひ観てみたいと思っている。
(2013年10月17日)
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