10月4日は、『広辞苑』を作った言語学者、新村出(しんむらいずる)が生まれた日(1876年)だが、仏文学者の河盛好蔵の誕生日でもある。
自分は学生のころから、河盛好蔵の翻訳やエッセイを読んできた。ジャン・コクトーの『山師トマ』、ガイ・エンドアの『パリの王様』など、なつかしい。つねに明晰、明朗な教養人だったと思う。

河盛好蔵は、1902年、大阪の堺で生まれた。父親は肥料問屋だった。
家の近くに、歌人の与謝野晶子の生家があって、
「海こひし潮の遠鳴りかぞへつつ 少女となりし父母の家」
の歌碑が建っていた。好蔵の母親は、菓子屋の店番をする娘時代の晶子をよく見かけたそうで、もう彼女は生家にはいないとは知りつつ、好蔵もなにかの拍子にその姿を見られないかと、菓子屋の前を毎日気にしながら通ったという。(河盛好蔵『フランス語盛衰記』日本経済新聞社)
第一次大戦のフランスの善戦によりおこったフランス・ブームの影響で、フランス語科へ進んだ河盛は、23歳のとき京都帝国大学の仏文科を卒業し、関西大学のフランス語教師になった。
25歳のとき、大学を辞め、パリのソルボンヌ大学へ留学しフランス語を学び直した。
28歳のときに帰国し、ジャン・コクトーの『山師トマ』を翻訳。以後、大学で教鞭をとりながら、翻訳とエッセイを発表し、フランスのエスプリを紹介しつづけた。
87歳のとき、脳梗塞で倒れ、車椅子の生活となったのを機会に教壇をおりた。もう一度フランスに留学して、フランス語を勉強し直し、和仏大辞典を作るのが夢だとしながら、2000年3月、没した。97歳だった。著書に『フランス文壇史』『パリの憂愁』『藤村のパリ』『人とつきあう法』『エスプリとユーモア』『回想の本棚』などがある。

自分は河盛好蔵の本は何冊か持っているけれど、なかでも『エスプリとユーモア』が好きで、高校生のころから何度も読み返している。この本のなかには、大好きなフレーズがいっぱいある。たとえば、モラリストのシャンフォールの逸話。
「あるとき、村の医者が鉄砲を肩にして猟に出かけるのに道で会った彼は、『病人だけではもの足りませんか』といった。」(河盛好蔵『エスプリとユーモア』岩波新書)
こういう軽やかなエスプリの風を日本に吹き入れてくれた人、それが河盛好蔵だった。それはとても貴重な涼風で、自分はずいぶんお世話になってきたし、いまもなっている。

かつて、女流作家の瀬戸内寂聴が、河盛好蔵の手相をみて、健康で長生きで、息子は父親思いで、おもしろくもなんともない人生だ、という意味の占い診断をくだしたと、どこかで読んだ。河盛好蔵はそれからずいぶんたった後、瀬戸内に、占ってもらった通りの人生でしたと喜んで報告したそうだ。
もちろん本人の資質があってのことにせよ、名は体を表すで、自分は「河盛好蔵」という名前が、すでに彼の楽観的な朗らかな性格と、明るく温かい人生を暗示している気がする。
同じフランス文学者でも、「小林秀雄」となると、堅くてまじめな感じがする。小林がもしも「河盛好蔵」という名前だったら、人生もまったくちがったものになっていたのではないか、という気が自分にはする。
(2013年10月4日)



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