10月3日は、『次郎物語』を書いた下村湖人が生まれた日(1884年)だが、女流作家の平林たい子の誕生日でもある。
平林たい子は「平林たい子文学賞」が設けられたほどの作家だが、自分は長いあいだ読まずにきた。ところが、谷崎潤一郎や川端康成の英訳者、エドワード・サンデンステッカーが、彼女のことを書いていて、それで興味をもつようになった。

平林たい子は、1905年、長野の諏訪で生まれた。本名は平林タイ。8人きょうだいの6番目だった。貧しい生活のなか、10歳のころから母親を助け、少女雑誌に投稿していたタイは、トルストイ、ゾラに傾倒し、やがて社会主義思想にひかれるようになった。
17歳のとき上京し、電話局に勤めだした。その後、アナーキストの男と同棲し、プロレタリア文学を志した平林は、特高警察にねらわれ、身柄を拘束され、東京から出ていくことを条件に釈放された。
満州で子どもを出産し、栄養失調のためすぐに赤子を失った彼女は、19歳のとき、単身日本へもどってきて作家を目指した。合宿所の炊事係や喫茶店の女給をし、知り合いの家を泊まり歩きながら、童話や小説を書き、出版社にもちこみ、懸賞小説に応募した。
22歳のころ、満州での出産、赤子との死別の経験をもとに短編小説『施療院にて』を書き、プロレタリア作家としての評価がしだいに高まった。
1937年、32歳のとき、彼女はまたもや拘留された。留置場で腹膜炎に肋膜炎を併発した平林は、病状を訴えても放置された。
「とうとう私は、歩けないほどの重態になってから、留置場を出されることになった。『ここで死なれたら大変だ』という思惑のおかげで出られたのである。しかし、行くさきがないので、一日待ってくれ、とこちらから願い出、考える始末だった。」(「私の履歴書」『平林たい子全集12』潮出版社)
一時は生死の境をさまよった3年間の闘病生活の後、ようやく回復した平林は、終戦を故郷、諏訪で迎えた。戦後は『かういふ女』『砂漠の花』などを発表、時代を代表する女流文学者としてつねに論戦の矢面に立って発言した。
1972年2月、肺炎と心不全により、東京で没した。66歳だった。

『雪国』『細雪』を訳したサイデンステッカーは、平林たい子のことをこう評している。
「私が知り合った日本人の中で、私が外国人であることなどいちばん気にかけない人だった。日本では、外国人が外国人であることを忘れていられることは滅多にない。平林さんの場合は、私が外国人であるとを忘れるというより、そんなことは最初から、二人のあいだには意識になかったとさえ癒えるだろう。壁を乗り越える必要などなかった
。初めから壁などなかったのである。」(エドワード・サイデンステッカー著、安西徹雄訳『日本との50年戦争』朝日新聞社)
自分は、こういう文章を読むと、なんとなく、平林たい子が近しい人のような気がし、共感を持つ。自分も、外国人と話していて、国籍や民族や宗教がちがう、言語の異なるも人と話しているという意識をほとんど持たないからである。
平林という人は、ぬかるみのなかもがき、それでも前進しつづけた、苦闘の人生を送った人だった。その言動はつねに正しいことばかりだったとは思われないけれど、その都度、彼女にとっては、真実である道を進みつづけた。その蓄積が自信となって彼女を、人を肌の色や国籍で分け隔てしない寛容の人にしたのだと思う。
(2013年10月3日)



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