9月18日は、振り子の実験で地球の自転を証明した物理学者、レオン・フーコー(1819年)が生まれた日だが、映画女優、グレタ・ガルボの誕生日でもある。
ガルボを、自分は若いころから大好きで、彼女の映画はよく観た。あの大きく見開かれた目。恋をまっすぐみつめる、くっきりとした眼差しがいいのだと思う。
グレタ・ガルボは、1905年、スウェーデンのストックホルムで生まれた。本名はグレタ・ロヴィーサ・グスタフソン。父親は日雇い労働者、母親は裁縫仕事の内職をしていた。グレタが15歳のとき、父親が没し、彼女は理髪店の見習いをへて、デパートの売り子になった。帽子のカタログ用のモデルを務めたところ好評で、デパートの宣伝映画に出るようになり、これが映画関係者の目にとまり、彼女はコメディ映画の端役を演じた。そして、王立演劇学院に通い、演技の勉強をはじめた。
彼女が18歳のとき、スウェーデンの映画監督、マウリッツ・スティルレルが新作に起用する俳優を求めて、彼女の演劇学院にやってきた。スティルレルは、なるたけ素人らしい、もっとも成績の悪い生徒を紹介してくれるよう、学院側に頼んだ。それで紹介されたのがグレタだった。彼女を見たスティルレルは、こう叫んだという。
「もう10キロばかりやせてくれなきゃ!」(山田宏一編『シネアルバム12グレタ・ガルボ マレーネ・ディートリッヒ』芳賀書店)
スティルレルは彼女に「グレタ・ガルボ」という芸名を与え、新作映画「イェスタ・ベルリング伝説」のヒロインに抜擢した。映画は欧州で大ヒットし、これを観た米国のMGM映画社から、スティルレル監督に、ぜひハリウッドへとの誘いの声がかかった。このとき、スティルレルは、MGM側にひとつ条件をつけた。「グレタ・ガルボといっしょなら」と。MGM側は、その条件をのんだ。ガルボは19歳のとき、スティルレル監督といっしょに船で大西洋を渡り、ハリウッド入りした。
ハリウッドでは、スティルレル監督は現場と衝突し、撮影途中で監督を降ろされたりして活躍できず、ひとりスウェーデンに帰っていった。
一方、ガルボのほうは、3年ほどかけて大改造がおこなわれた。もじゃもじゃのちぢれ髪に、まばらな眉、ひどい出っ歯の肥った娘は、髪を伸ばし、ヘアスタイルを決め、眉を細くくっきりと描き、歯を嬌声し、ダイエットし、メイキャップを施し、絶世の美女「神聖ガルボ帝国」へと変身させられた。そして「明眸罪あり」「肉体と悪魔」などに主演し、ハリウッドを代表するスターのひとりとなっていった。
23歳のとき、映画の撮影中にガルボは、恩人スティルレル監督がスウェーデンで没したとの報せを聞き、顔色をなくし、ことばを失ったという。
トーキー時代には「アンナ・クリスティ」「マタ・ハリ」「グランド・ホテル」「クリスチナ女王」「アンナ・カレニナ」「椿姫」「ニノチカ」などに主演。
36歳で引退し、その後は公の場を避け、ニューヨークでひっそりと暮らした。
1990年4月、腎不全と肺炎により没した。84歳だった。
現代の映画では、人生や恋愛の残酷な一面などが生々しく描かれることが多いけれど、グレタ・ガルボの時代は、そうではなく、当時の映画のヒロインの性格は恋愛至上主義と相場が決まっていた。男を愛してしまったら、もう観念して、恋のため、相手のためにすべてを捧げる。だから、恋人のために自分がすすんで犠牲となり命を捨てたり、恋人を救うために悪者の言いなりになったりする、そういう女性だった。
単純といえば単純な人生観だけれど、とても気持ちがいいもので、そういう意味では、昔の映画は、美しい夢を見せてくれていたなあ、と感慨深い。
人が夢をみると書いて「儚い(はかない)」と読む、とは言うけれど。
(2013年9月18日)
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『12月生まれについて』
ディートリッヒ、ゴダール、ディズニー、ハイネなど、12月誕生の31人の人物評論。人気ブログの元となった、より長く深いオリジナル原稿版。12月生まれの取扱説明書。
www.papirow.com
ガルボを、自分は若いころから大好きで、彼女の映画はよく観た。あの大きく見開かれた目。恋をまっすぐみつめる、くっきりとした眼差しがいいのだと思う。
グレタ・ガルボは、1905年、スウェーデンのストックホルムで生まれた。本名はグレタ・ロヴィーサ・グスタフソン。父親は日雇い労働者、母親は裁縫仕事の内職をしていた。グレタが15歳のとき、父親が没し、彼女は理髪店の見習いをへて、デパートの売り子になった。帽子のカタログ用のモデルを務めたところ好評で、デパートの宣伝映画に出るようになり、これが映画関係者の目にとまり、彼女はコメディ映画の端役を演じた。そして、王立演劇学院に通い、演技の勉強をはじめた。
彼女が18歳のとき、スウェーデンの映画監督、マウリッツ・スティルレルが新作に起用する俳優を求めて、彼女の演劇学院にやってきた。スティルレルは、なるたけ素人らしい、もっとも成績の悪い生徒を紹介してくれるよう、学院側に頼んだ。それで紹介されたのがグレタだった。彼女を見たスティルレルは、こう叫んだという。
「もう10キロばかりやせてくれなきゃ!」(山田宏一編『シネアルバム12グレタ・ガルボ マレーネ・ディートリッヒ』芳賀書店)
スティルレルは彼女に「グレタ・ガルボ」という芸名を与え、新作映画「イェスタ・ベルリング伝説」のヒロインに抜擢した。映画は欧州で大ヒットし、これを観た米国のMGM映画社から、スティルレル監督に、ぜひハリウッドへとの誘いの声がかかった。このとき、スティルレルは、MGM側にひとつ条件をつけた。「グレタ・ガルボといっしょなら」と。MGM側は、その条件をのんだ。ガルボは19歳のとき、スティルレル監督といっしょに船で大西洋を渡り、ハリウッド入りした。
ハリウッドでは、スティルレル監督は現場と衝突し、撮影途中で監督を降ろされたりして活躍できず、ひとりスウェーデンに帰っていった。
一方、ガルボのほうは、3年ほどかけて大改造がおこなわれた。もじゃもじゃのちぢれ髪に、まばらな眉、ひどい出っ歯の肥った娘は、髪を伸ばし、ヘアスタイルを決め、眉を細くくっきりと描き、歯を嬌声し、ダイエットし、メイキャップを施し、絶世の美女「神聖ガルボ帝国」へと変身させられた。そして「明眸罪あり」「肉体と悪魔」などに主演し、ハリウッドを代表するスターのひとりとなっていった。
23歳のとき、映画の撮影中にガルボは、恩人スティルレル監督がスウェーデンで没したとの報せを聞き、顔色をなくし、ことばを失ったという。
トーキー時代には「アンナ・クリスティ」「マタ・ハリ」「グランド・ホテル」「クリスチナ女王」「アンナ・カレニナ」「椿姫」「ニノチカ」などに主演。
36歳で引退し、その後は公の場を避け、ニューヨークでひっそりと暮らした。
1990年4月、腎不全と肺炎により没した。84歳だった。
現代の映画では、人生や恋愛の残酷な一面などが生々しく描かれることが多いけれど、グレタ・ガルボの時代は、そうではなく、当時の映画のヒロインの性格は恋愛至上主義と相場が決まっていた。男を愛してしまったら、もう観念して、恋のため、相手のためにすべてを捧げる。だから、恋人のために自分がすすんで犠牲となり命を捨てたり、恋人を救うために悪者の言いなりになったりする、そういう女性だった。
単純といえば単純な人生観だけれど、とても気持ちがいいもので、そういう意味では、昔の映画は、美しい夢を見せてくれていたなあ、と感慨深い。
人が夢をみると書いて「儚い(はかない)」と読む、とは言うけれど。
(2013年9月18日)
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