8月25日は、英国スコットランドの映画俳優、ショーン・コネリーが生まれた日(1930年)だが、米国の作曲家で指揮者のレナード・バーンスタインの誕生日でもある。
自分は若いころ、小澤征爾の彼の著書『ボクの音楽武者修行』を読んだ。そのなかに、バーンスタインは、シーズン中は音楽一辺倒の生活になるが、オフシーズンになると、休暇をとり、音楽のことはいっさい忘れる、そして休暇を終えてもどってくると、また音楽にものすごく集中する人だと書いてあったと思う。自分は、アメリカ人らしい人だなあ、と感心した。
レナード・バーンスタインは、1918年、米国マサチューセッツ州のローレンスで生まれた。誕生時の本名は、ルイス・バーンスタインだったが、周囲人が「レナード」と呼び、本人も気に入って、16歳のときに「レナード・バーンスタイン」に改名した。両親はユダヤ人で、ウクライナからきた移民の夫婦。父親は化粧品店をやっていた。
小さいころのレナードは、なにもしたいことがない、やる気のない、ろくに笑ったこともない子どもだった。10歳のとき、彼は自宅の屋根裏部屋で、古いピアノを見つけた。彼の両親はピアノを弾かず、親戚の叔母が置いていったものだった。レナード少年は、ちっと触ってみて、たちまち演奏の喜びに打たれたという。
「その瞬間から、音楽は永遠に私のものになり、翌日には、私はもう別人のようでした。」(レナード・バーンスタイン、エンリーコ・カスティリオーネ共著、西元晃監訳、笠羽映子訳『バーンスタイン 音楽を生きる』青土社)
ピアノをはじめたバーンスタインは急に成績優秀な、スポーツもやる積極的な少年に生まれ変わった。ハーヴァード大学の音楽学部、フィラデルフィの音楽院をへて、第二次世界大戦中の1943年、25歳の年に、バーンスタインはニューヨーク・フィルハーモニック管弦楽団の副指揮者となった。同年の11月、巨匠、ブルーノ・ワルターがインフルエンザで倒れ、その代役として、バーンスタインは一回のリハーサルもせず、ぶっつけ本番で指揮棒を振った。コンサートはラジオで全国放送され、翌朝の朝刊一面にバーンスタインの名演奏ぶりが載り、彼の名前は一夜にして有名になった。
39歳のとき、ニューヨーク・フィルの音楽監督に就任。指揮の身ぶりが派手すぎると非難を浴びたつつ、クラシック界のスターとして君臨し、映画「ウェスト・サイド物語」の音楽を作曲した。1990年8月、弟分の小澤征爾が音楽監督を務めるボストン交響楽団を指揮した後、同年10月、肺気腫により没した。72歳だった。
バーンスタインは、ドビュッシーならドビュッシーと決めて研究をはじめると、徹底的にドビュッシーに入れ込み、ドビュッシーは最高だ、と惚れ込んでスコアを読み、指揮をする。つぎにマーラーにとりかかると、今度はほかの誰よりもマーラーが大好きになって、スコア研究をはじめる、といった具合の人だった。アメリカ的に、集中と切り替えが上手な人なのである。
たぶん1985年ごろ、グラミー賞の授賞式のテレビ中継に、67歳のバーンスタインが特別賞の受賞者として登場して驚いたことがあった。異様な陽気さで、たぶん酔っぱらっていたと思う。受賞スピーチで、ごきげんの彼は、こんな内容を大声でしゃべった。
「今夜は、ティナ・ターナーのための夜だぁ」
その年、ティナ・ターナーは「愛の魔力(What's Love Got To Do With It)でグラミー賞の最優秀レコード賞を受賞したのだけれど、「アメリカの奇跡」と言われるクラシック界の大御所が、威厳を微塵を見せず、ただの酔っぱらいみたいにくだを巻いている、その軽さには驚いた。はじけ方からして、やはり並みの人ではない、と自分は感心した。
(2013年8月25日)
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自分は若いころ、小澤征爾の彼の著書『ボクの音楽武者修行』を読んだ。そのなかに、バーンスタインは、シーズン中は音楽一辺倒の生活になるが、オフシーズンになると、休暇をとり、音楽のことはいっさい忘れる、そして休暇を終えてもどってくると、また音楽にものすごく集中する人だと書いてあったと思う。自分は、アメリカ人らしい人だなあ、と感心した。
レナード・バーンスタインは、1918年、米国マサチューセッツ州のローレンスで生まれた。誕生時の本名は、ルイス・バーンスタインだったが、周囲人が「レナード」と呼び、本人も気に入って、16歳のときに「レナード・バーンスタイン」に改名した。両親はユダヤ人で、ウクライナからきた移民の夫婦。父親は化粧品店をやっていた。
小さいころのレナードは、なにもしたいことがない、やる気のない、ろくに笑ったこともない子どもだった。10歳のとき、彼は自宅の屋根裏部屋で、古いピアノを見つけた。彼の両親はピアノを弾かず、親戚の叔母が置いていったものだった。レナード少年は、ちっと触ってみて、たちまち演奏の喜びに打たれたという。
「その瞬間から、音楽は永遠に私のものになり、翌日には、私はもう別人のようでした。」(レナード・バーンスタイン、エンリーコ・カスティリオーネ共著、西元晃監訳、笠羽映子訳『バーンスタイン 音楽を生きる』青土社)
ピアノをはじめたバーンスタインは急に成績優秀な、スポーツもやる積極的な少年に生まれ変わった。ハーヴァード大学の音楽学部、フィラデルフィの音楽院をへて、第二次世界大戦中の1943年、25歳の年に、バーンスタインはニューヨーク・フィルハーモニック管弦楽団の副指揮者となった。同年の11月、巨匠、ブルーノ・ワルターがインフルエンザで倒れ、その代役として、バーンスタインは一回のリハーサルもせず、ぶっつけ本番で指揮棒を振った。コンサートはラジオで全国放送され、翌朝の朝刊一面にバーンスタインの名演奏ぶりが載り、彼の名前は一夜にして有名になった。
39歳のとき、ニューヨーク・フィルの音楽監督に就任。指揮の身ぶりが派手すぎると非難を浴びたつつ、クラシック界のスターとして君臨し、映画「ウェスト・サイド物語」の音楽を作曲した。1990年8月、弟分の小澤征爾が音楽監督を務めるボストン交響楽団を指揮した後、同年10月、肺気腫により没した。72歳だった。
バーンスタインは、ドビュッシーならドビュッシーと決めて研究をはじめると、徹底的にドビュッシーに入れ込み、ドビュッシーは最高だ、と惚れ込んでスコアを読み、指揮をする。つぎにマーラーにとりかかると、今度はほかの誰よりもマーラーが大好きになって、スコア研究をはじめる、といった具合の人だった。アメリカ的に、集中と切り替えが上手な人なのである。
たぶん1985年ごろ、グラミー賞の授賞式のテレビ中継に、67歳のバーンスタインが特別賞の受賞者として登場して驚いたことがあった。異様な陽気さで、たぶん酔っぱらっていたと思う。受賞スピーチで、ごきげんの彼は、こんな内容を大声でしゃべった。
「今夜は、ティナ・ターナーのための夜だぁ」
その年、ティナ・ターナーは「愛の魔力(What's Love Got To Do With It)でグラミー賞の最優秀レコード賞を受賞したのだけれど、「アメリカの奇跡」と言われるクラシック界の大御所が、威厳を微塵を見せず、ただの酔っぱらいみたいにくだを巻いている、その軽さには驚いた。はじけ方からして、やはり並みの人ではない、と自分は感心した。
(2013年8月25日)
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