8月13日は、キューバ革命を成功させたフィデル・カストロが生まれた日(1926年)だが、米国の女性運動家、ルーシー・ストーンの誕生日でもある。
自分は米国現代史が専門で、1960年代からのヒッピー運動、学生運動、女性解放運動などの文化革命を勉強していくうちに、女性解放運動の先駆者であるルーシー・ストーンのことを知った。彼女は南北戦争時代の女性である。

ルーシー・ストーンは、1818年、マサチューセッツ州の農場で生まれた。当時の農場の生活は苛酷で忙しかった。とくに女性は多忙で、さらに家庭では父親の命令が絶対で、女は服従するしかなかった。母親を見て育ったルーシーは、母親のような人生を送りたくないと考え、「たとえどんな男であろうと、私はけっして主人とは呼ばない」と決意した(池上千寿子『アメリカ女性解放史』亜紀書房)。
学校を出たルーシーは、16歳からいったん学校の教師になったが、後、より高い教育を求め、オハイオ州のオーバーリンにできた、全米初の女子学生と黒人学生を受け入れる大学に、25歳で入学した。
大学時代から男女差別と闘っていたストーンは、29歳でオーバーリンを卒業。マサチューセッツ州で最初の大卒女性となった。卒業後、マサチューセッツへもどったストーンは教職に就き、学生ローンを返済しだしたが、地元の教会で、奴隷解放と女性の権利について演説会を開いた。すると、これがマサチューセッツ反奴隷制協会の注目するところとなり、ストーンはその協会と契約し、協会の講演家となった。
彼女が各地でおこなったスピーチは論争を巻き起こし、演壇で彼女はしばしば腐った果物や卵を投げつけられた。それでもストーンは集会や演説会を開き、新聞や雑誌で健筆をふるい、投票権を含む女性のさまざまな権利獲得について訴え、「全国女性権利会議」の開催に尽力し、権利平等協会の結成に立ち会った。1893年10月、ルーシー・ストーンは胃ガンのため、マサチューセッツ州ボストンで没した。75歳だった。

独身主義だったストーンは、ヘンリー・ブラックウェルという英国出身のビジネスマンが再三求婚してくるのに根負けし、37歳でついに結婚している。結婚にあたり、彼女は夫婦が平等の権利を持つという条件をつけていて、7歳年下の夫はそれを飲んだ。
ヘンリーは、不動産投機にすぐれた才を示し、妻ルーシーが執筆・編集する「ウーマンズ・ジャーナル」の発行人となり、妻の活動を資金面から援助した。ルーシーは、結婚後も「ルーシー・ストーン」の名前で活動したが、これは当時画期的なことだった。

結婚した翌年、ルーシー・ストーンは、法廷に呼びだされた。ある黒人女性が、自分の子どもを奴隷にされそうになり、ナイフでわが子を殺そうとした。そのナイフをストーンが渡したという嫌疑のためだった。法廷でストーンはこう証言したという。
「もしもわたしが奴隷のくさりをつけられるとになったら、むしろわたしは、自分の歯で血管をかみ切って、大地にこの血を吸わせて果てるでしょう。そんなわたしが、くさりのない、神さまと天使たちのいる自由の国へと、わが子を送りだそうとする母親を、どうして責められましょうか?」

ルーシー・ストーンは、エリザベス・スタントン、スーザン・アンソニーたちと並ぶ、19世紀の女性運動家の巨星である。彼女たちの努力が実り、米国で女性の投票権が認められたのは、ストーンが没して四半世紀後、第一次世界大戦後の1920年のことだった。
日本の女性の投票権については、戦前の市川房枝らによる婦人参政権運動があったが、結局、日本人の独力ではかなわず、戦後、占領軍(要するに米国)の指導のもとで、1945年にようやく実現された。だから、現代を生きる日本女性も、ルーシー・ストーンの恩恵をすくなからず受けていることになる。
(2013年8月5日)



●ぱぴろうの電子書籍!

『コミュニティー 世界の共同生活体』
ドキュメント。ツイン・オークス、ガナスなど、世界各国にある共同生活体「コミュニティー」を具体的に説明、紹介。


www.papirow.com