7月28日は、20世紀最大の芸術家とも称されるマルセル・デュシャンが生まれた日(1887年)だが、ケネディ大統領のファーストレディだったジャクリーン・ケネディの誕生日でもある。ジャクリーン(愛称、ジャッキー)は、先日、駐日米国大使に指名されたキャロライン・ケネディの母親である。
自分は昔、ジャッキーがファーストレディだった当時に訪問したメキシコでスペイン語のスピーチをした映像を見たことがあるけれど、この上なく上品で、みごとな話しぶりだった。あれでは、どこの国の首脳にしろ、まいってしまうだろう。そういう、米国がまだ真善美の看板を掲げていた時代の、もっとも美しい旗印だった。
ジャクリーン・リー・ブーヴィエは、1929年、米国ニューヨークで生まれた。
裕福な環境に育ったジャッキーは、ワシントンDCの大学を卒業し、卒業後は「ワシントン・タイムズ・ヘラルド」紙の契約カメラマンをしていた。
22歳のとき、ジャッキーはディナー・パーティーで、当時上院議員選に向けて準備中だったジョン・ケネディ下院議員と知り合った。翌年、二人は結婚し、彼女はケネディ上院議員夫人、ジャクリーン・リー・ブーヴィエ・ケネディとなった。そして、夫のジョンが、1961年に米大統領に就任すると、彼女は31歳のファーストレディとなった。
ジャッキーはホワイトハウスに引っ越してくると、ホワイトハウスの改革に着手した。家族用のスペースにはキッチンを設け、子ども部屋を作り、公務用のスペースでは、ふぞろいの家具や調度品を、もっと米国の歴史を感じさせるものに替え、米国のよい芸術品を集めて飾った。そうして、ホワイトハウス・ガイドブックを出版し、その売り上げをさらなる修繕費にあて、テレビ番組にホワイトハウスの内部を公開した。そうして、ホワイトハウスを、みんなが誇りに思う場所へと造り替えていった。
大統領に付き添ってゆく外遊先では、ジャッキーの美貌と語学力がきらめいた。彼女は英語のほか、スペイン語とフランス語に堪能で、メキシコやフランスなど、訪れた先ではその国のことばでスピーチし大歓迎を受けた。米大統領夫妻がフランスを訪問すると、フランス語で話す夫人に熱狂した現地のマスコミがこう書き立てた。
「彼女はひとり男を連れてきた」
これを聞いたジョン・ケネディ大統領は、こう言って笑った。
「わたしはジャクリーン・ケネディのお供でパリにやってきた男だ。お供は楽しかったよ!」
1963年11月、テキサス州ダラスの通りをオープンカーでパレード中、ケネディ大統領はライフル銃による狙撃を受けた。となりに乗っていたジャッキーは、大統領が頭部を撃たれると、身をひるがえしてクルマの後部に身を乗りだしていった。銃撃でふき飛んだ夫の頭蓋骨を拾うためだった。
パレードは中止され、クルマは病院へ急行した。ジャッキーは夫の頭蓋骨の破片を医師に手渡した。大統領は亡くなり、ジャッキーは血染めのドレスのまま、大統領専用機、エア・フォース・ワンに乗り込み、機上でジョンソン副大統領が大統領就任の宣誓をするのに立ち会った。ドレスを着替えなかったことについて、ジャッキーは副大統領夫人にこう言ったという。
「彼らがジャック(ジョン)になにをしたのか見せてやるのよ」
ジャッキーは、ふたりの子を連れた34歳で未亡人となった。
夫の死後、ジャッキーは息をひそめて暮らしていたが、38歳のとき、亡き夫の弟、ロバート・ケネディが暗殺されると、つぎに狙われるのは自分の子どもかもしれないと、米国を離れることを決意。39歳のとき、当時、世界一の金持ちと言われたギリシアの海運王、アリストテレス・オナシスと結婚。これによって、彼女の名前は、ジャクリーン・リー・ブーヴィエ・ケネディ・オナシスとなった。
新しい伴侶オナシスは、1975年3月に没し、ジャッキーは45歳にしてふたたび未亡人となった。その後、彼女は編集者となって活躍する一方で、彼女はセレブ中のセレブとして、つねにゴシップ・ジャーナリズムに追われつづけた。
1994年5月、ジャッキーは悪性リンパ腫により、ニューヨーク5番街のアパートで没した。64歳だった。
ジャッキーは、世界最強国の上流階級に生まれ、恵まれた環境に育ち、知性と美貌を兼ね備え、世界一の権力者と、世界一の富豪、両方を自分のものにした。しかし、その生涯は甘い幸福にのみ包まれたものではなく、そこには残酷な運命に踏みにじられる悲劇的な場面や苦悩の場面が数多くあった。もしも自分が彼女のような境遇に生まれていたら、とても彼女のようにたくましくは生きられなかったろうことを思いあわせるとき、あらためて彼女の人生に敬服の念を持たざるを得ない。
(2013年7月28日)
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『1月生まれについて』
村上春樹、三島由紀夫、モーツァルトなど1月誕生の31人の人物評論。人気ブログの元となった、より長く、深いオリジナル原稿版。1月生まれの教科書。
www.papirow.com
自分は昔、ジャッキーがファーストレディだった当時に訪問したメキシコでスペイン語のスピーチをした映像を見たことがあるけれど、この上なく上品で、みごとな話しぶりだった。あれでは、どこの国の首脳にしろ、まいってしまうだろう。そういう、米国がまだ真善美の看板を掲げていた時代の、もっとも美しい旗印だった。
ジャクリーン・リー・ブーヴィエは、1929年、米国ニューヨークで生まれた。
裕福な環境に育ったジャッキーは、ワシントンDCの大学を卒業し、卒業後は「ワシントン・タイムズ・ヘラルド」紙の契約カメラマンをしていた。
22歳のとき、ジャッキーはディナー・パーティーで、当時上院議員選に向けて準備中だったジョン・ケネディ下院議員と知り合った。翌年、二人は結婚し、彼女はケネディ上院議員夫人、ジャクリーン・リー・ブーヴィエ・ケネディとなった。そして、夫のジョンが、1961年に米大統領に就任すると、彼女は31歳のファーストレディとなった。
ジャッキーはホワイトハウスに引っ越してくると、ホワイトハウスの改革に着手した。家族用のスペースにはキッチンを設け、子ども部屋を作り、公務用のスペースでは、ふぞろいの家具や調度品を、もっと米国の歴史を感じさせるものに替え、米国のよい芸術品を集めて飾った。そうして、ホワイトハウス・ガイドブックを出版し、その売り上げをさらなる修繕費にあて、テレビ番組にホワイトハウスの内部を公開した。そうして、ホワイトハウスを、みんなが誇りに思う場所へと造り替えていった。
大統領に付き添ってゆく外遊先では、ジャッキーの美貌と語学力がきらめいた。彼女は英語のほか、スペイン語とフランス語に堪能で、メキシコやフランスなど、訪れた先ではその国のことばでスピーチし大歓迎を受けた。米大統領夫妻がフランスを訪問すると、フランス語で話す夫人に熱狂した現地のマスコミがこう書き立てた。
「彼女はひとり男を連れてきた」
これを聞いたジョン・ケネディ大統領は、こう言って笑った。
「わたしはジャクリーン・ケネディのお供でパリにやってきた男だ。お供は楽しかったよ!」
1963年11月、テキサス州ダラスの通りをオープンカーでパレード中、ケネディ大統領はライフル銃による狙撃を受けた。となりに乗っていたジャッキーは、大統領が頭部を撃たれると、身をひるがえしてクルマの後部に身を乗りだしていった。銃撃でふき飛んだ夫の頭蓋骨を拾うためだった。
パレードは中止され、クルマは病院へ急行した。ジャッキーは夫の頭蓋骨の破片を医師に手渡した。大統領は亡くなり、ジャッキーは血染めのドレスのまま、大統領専用機、エア・フォース・ワンに乗り込み、機上でジョンソン副大統領が大統領就任の宣誓をするのに立ち会った。ドレスを着替えなかったことについて、ジャッキーは副大統領夫人にこう言ったという。
「彼らがジャック(ジョン)になにをしたのか見せてやるのよ」
ジャッキーは、ふたりの子を連れた34歳で未亡人となった。
夫の死後、ジャッキーは息をひそめて暮らしていたが、38歳のとき、亡き夫の弟、ロバート・ケネディが暗殺されると、つぎに狙われるのは自分の子どもかもしれないと、米国を離れることを決意。39歳のとき、当時、世界一の金持ちと言われたギリシアの海運王、アリストテレス・オナシスと結婚。これによって、彼女の名前は、ジャクリーン・リー・ブーヴィエ・ケネディ・オナシスとなった。
新しい伴侶オナシスは、1975年3月に没し、ジャッキーは45歳にしてふたたび未亡人となった。その後、彼女は編集者となって活躍する一方で、彼女はセレブ中のセレブとして、つねにゴシップ・ジャーナリズムに追われつづけた。
1994年5月、ジャッキーは悪性リンパ腫により、ニューヨーク5番街のアパートで没した。64歳だった。
ジャッキーは、世界最強国の上流階級に生まれ、恵まれた環境に育ち、知性と美貌を兼ね備え、世界一の権力者と、世界一の富豪、両方を自分のものにした。しかし、その生涯は甘い幸福にのみ包まれたものではなく、そこには残酷な運命に踏みにじられる悲劇的な場面や苦悩の場面が数多くあった。もしも自分が彼女のような境遇に生まれていたら、とても彼女のようにたくましくは生きられなかったろうことを思いあわせるとき、あらためて彼女の人生に敬服の念を持たざるを得ない。
(2013年7月28日)
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