7月12日は、米国の思想家、ヘンリー・ソローが生まれた日(1817年)だが、日本のデザイナー、石岡瑛子(いしおかえいこ)さんの誕生日でもある。
自分が石岡瑛子さんの名前をはじめて知ったのは、彼女がマイルス・デイヴィスのアルバム「TUTU」のジャケット・デザインで、1987年のグラミー賞のベスト・アルバム・パッケージ部門を受賞したときだった。レコードジャケットいっぱいにジャズ界の帝王マイルスの顔のアップが据えられた作品である。センスがすごいと思った。また、海外で活躍す日本女性アーティストがいると知って、うれしかった。

石岡瑛子さんは、1938年、東京で生まれた。父親は広告のデザイナーだった。
東京芸大を卒業した瑛子さんは、広告のデザイナーになり、力強い女性像を前面に出した広告が話題となり、30代のころには日本を代表する広告デザイナーになっていた。
しかし、40歳のとき、彼女は急に「さむざむしい気持ち」に襲われた。仕事は順風満帆だったが、充実感が感じられなくなってしまった。
「クリエイトしてみたいっていう衝動がなかからほんとうにわき起こるまで、表現を志してもしょうがないっていう風にわたしは思ったの」(NHKテレビ番組「プロフェッショナル」)
彼女は、事務所を閉め、仕事を全部やめて、単身米国ニューヨークへ渡った。なにかあてがあるわけではなかった。そうしてニューヨークでぶらぶら暮らして1年がすぎたある日、街の映画館で、黒澤明監督の「七人の侍」がかかっていたので入った。彼女は映画に感銘を受けるとともに、上映が終了した後に、観客たちが口々に感想を述べあう様子を見て驚いた。自分もこういう仕事がしたいと、思った。それが再出発地点になった。
47歳のとき、映画「ミシマ」の美術監督を担当し、カンヌ映画祭で美術貢献賞を受賞。
49歳のとき、マイルスのレコード・ジャケットで、グラミー賞を受賞。
54歳のとき、映画「ドラキュラ」の衣裳を担当し、アカデミー賞衣装デザイン賞を受賞。
そのほか、オペラや、サーカス、ミュージカルの衣裳、あるいは五輪代表の競技ウェアをデザインし、70歳のときには北京オリンピック開会式の衣裳を担当し、出演者の2万着ぶんをデザインした。2012年1月、すい臓がんで没した。73歳だった。

四十歳のことを「不惑」と呼ぶけれど、あれは孔子のようなえらい人の話で、すくなくとも、自分の四十歳はまったく逆だった。それまで自信のあったことや、信じていたものがガラガラと音をたててくずれ、もうなにがなんだかわからなくなって、人生について大いに惑いだした。だから、自分は「不惑」をこう考えている。
「ふつうの人は、四十歳ともなれば、とうぜん惑う。惑わないようなやつは、頭が足りない。でも、その惑いやすい困難な時期を乗り越えて、なんとか惑わない心境を手に入れてこそ、ほんとうの人生がはじまるので、四十とはそういう節目の年なのである」と。
だから、自分は、石岡瑛子さんが40歳になって、それまでの広告業界での栄光をすべて捨てて、なんの予定もなくニューヨークへ旅だった気持ちがよくわかる。
ジャンルを問わないデザイナーとしての彼女のほんとうの活躍がはじまったのは四十代後半からで、あぶらが乗ってきたのは五十代から七十代にかけてである。すごいと思う。

前掲のドキュメンタリー番組のなかで、72歳の石岡さんが、ブロードウェイ・ミュージカル「スパイダーマン」の衣裳に取り組む姿が紹介されていたが、70歳すぎて、あのエネルギッシュな仕事ぶりはすごいと思った。彼女は自分の仕事ぶりについてこう語っていた。
「ずっといつまでも無我夢中で目隠しした馬が走るように走っているようなもんですよ。寝ていたいと思う人にとっては、もの好きな生き方だと思うけれども。まだ途中だからね、旅のね。これからやっぱり死ぬまで目隠しをした馬のように走るんだろうかね」
ぜひ爪のアカをいただきたい、最後まで突っ走って生きた人だった。
(2013年7月11日)


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