7月8日は、日本画家、東山魁夷(ひがしやまかいい)が生まれた日(1908年)だが、米国の実業家、ロックフェラーの誕生日でもある。
自分が中学生だったとき、教師がこんな話をした。世界一の大富豪「ロックフェラー家」の子息は、新婚旅行は見聞を広めるために、二人で一年かけて世界を見てまわってくるという習わしがあるそうで、だからなかには遭難して帰ってこないカップルもいる、と、そんな話だった。これはまだ裏をとっていない話で、ほんとうかどうかわからないのだけれど、自分はとても感心した。「さすが、スケールが大きい。人間こうでなくっちゃ」

ジョン・デイヴィソン・ロックフェラー・シニアは、1839年、米国ニューヨーク州のリッチフォードで生まれた。父親は怪しげな新商品を売る山師的なセールスマンで、母親は堅実なプロテスタントのバプテスト(浸礼教会)派だった。
子どものころから、家事を手伝い、家計を助けていたジョンは、14歳のとき、オハイオ州へ引っ越した。クリーブランドの高校時代、彼は商科大学で10週間のビジネスコースを受講し簿記を学んだ。数学と経理が得意な彼は、将来は音楽家志望だったという。
16歳のとき、製造委託会社の経理の仕事につき、そのころから、乏しい給料のなかから6パーセント、あるいは10パーセントと割合を決めてバプテスト教会に寄付していた。
20歳のとき、友人といっしょに製造委託会社を設立し、24歳のとき、製油所に投資を開始。ここからロックフェラーの石油帝国建設がはじまった。彼はお金を借り入れと企業買収、利益の再投資などによって事業を拡大させ、鉄道会社と密約を結んで、自社の石油製品を競合他社よりも格安で輸送させ、競合相手を追いつめ、吸収または倒産させ、市場を独占していった。彼が43歳になったころには、全米の石油産業の95パーセントが彼の会社「スタンダードオイル」の傘下に入っていた。そうして彼は世界一の大富豪となった。
ロックフェラーは63歳のころには完全に引退し、慈善事業に力を入れはじめた。さまざまな大学に多額の寄付をし、ロックフェラー医学研究所(後のロックフェラー大学)を創設した。ここの研究員に野口英世がいた。ロッツフェラーはまた、ロックフェラー財団を創設して、この団体を通じて公衆衛生、医学、教育、芸術など幅広い分野に貢献を続けた。
1937年5月、動脈硬化により没した。97歳だった。

自分は、アメリカ史をやっているので、ロックフェラーがきれいごとだけで事業を拡大したのではないことはよく知っている。ロックフェラーの評価については、功罪相半ばするということになると思う。でも、学ぶべき点は多い。たとえば、若いころ、職さがしで困った時期について「当時は、さぞや困っていたでしょう」と訊かれると、ロックフェラーは「とんでもない」と、一言のもとに否定したという。
「私には職探しというビジネスがあって、毎日フルタイムでこのビジネスに没頭した。だから毎日が忙しくて、困っている暇などはまったくなかったよ」(『世界人物逸話大事典』角川書店)
この辺の人生に対する構えとユーモアの感覚に、自分は学びたいと思う。

これはうろ覚えの記憶で書くのだが、たしか野口英世がロックフェラー医学研究所の研究員としてアフリカで伝染病の研究中、黄熱病にかかり、51歳で病死したとき、伝染病による死亡者のため、本来は現地で焼却される決まりだった。しかし、ロックフェラーが、
「だめだ。ヒデヨの遺体をアメリカへ連れて帰れ。ちゃんと葬ってやるのだ」
と、鶴の一声を発した。ロックフェラーがこうだと言えば、ルールなど曲がってしまうもので、それで野口英世の遺体は、病原菌が漏れないよう、金属製の特別の柩に密閉されて運ばれ、ニューヨークの墓地に埋葬された、そんな話だったと思う。
ロックフェラーはそうやって、自分の財団のために尽くしてくれた、異国の有色人種である野口英世の忠義に、せめて死後になったとはいえ報いようとしたので、自分はこういうところに、ただの商売人でない、ロックフェラーという情に厚い男の人間性を見る。
(2013年7月8日)



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