4月14日は、ヘレン・ケラー以上に「奇跡の人」と呼ばれる彼女の家庭教師、アン・サリヴァンが生まれた日(1866年)だが、英国の歴史学者、トインビーの誕生日でもある。
自分は歴史学の学生だったこともあって、トインビーの本はすこし読んだ。いまでもときどき読み返す。自分にとっては、とても共感する部分の多い人である。

アーノルド・ジョーゼフ・トインビーは、1889年、英国のロンドンで生まれた。父親は医者で、貧民救済にたずさわる社会事業家でもあった。
22歳のとき、オクスフォード大学を卒業したトインビーは、同学寮の学生指導教師となり、また、英国考古学研究所の研究生として、ギリシア・ローマ史の研究をはじめた。
26歳のとき、大学を辞任し、英国外務省に就職。政治情報部に勤務しながら、歴史学書を執筆。
30歳のとき、パリ講和会議に中東地域専門委員として出席。また、ロンドン大学の教授に就任。
40歳のとき、京都で開催された太平洋問題調査会に、英国代表団の一員として初来日。
41歳のころから、代表作となる大著『歴史の研究』の執筆をはじめた。完結したのは、65歳のときだった。この著作によって、トインビーは、従来の国家を中心とした歴史観を脱し、新たに文明を中心とした歴史観を打ち立て、人類の歴史を文明の興亡として描き直して見せた。
67歳のときから、約1年半をかけて西まわりで世界一周の旅に出かけた。
79歳のとき、日本政府から勲一等瑞宝賞を授与。
1975年10月、ヨークにて没。86歳だった。

トインビーは、ギリシア・ローマの歴史研究から出発して、全人類の歴史までを見渡すところまでいった大歴史学者である。
彼は、たびたび来日し、日本にも多くの友人をもつ親日派だったが、日本のいい顔ばかりを観てきたのではない。長いつきあいである日本のいろいろな局面を彼は目撃してきている。
1929年、40歳のトインビーが初来日し出席した会議の主な議題は「満州問題」だった。当時、日本は山東出兵、張作霖爆死事件と、満州に軍事侵略を着々と進め、国際的に非難の嵐を浴びている真っ只中だった。国内的には、治安維持法ができて、思想統制がきびしくなっていた。そんななかでの公開講演で、トインビーは、日本に対して警告を発している。
「日本はカルタゴの轍(てつ)を踏むなかれ」
カルタゴは、かつて古代ローマの時代に地中海沿岸(現在のチュニジア)にあったフェニキア人の国家で、地中海貿易によって大いに栄えた国である。地中海の覇権をめぐって、ローマ帝国と衝突したが、カルタゴは豊富な財力にものを言わせて、外国人の傭兵部隊を抱え、名将ハンニバルを擁して、一時はローマ帝国を追いつめたこともあった。しかし、やがて自滅の道をたどり、ついにはローマに滅ぼされた。カルタゴは焦土と化し、生き残った国民はすべて奴隷とされた。
トインビーは、日本に、カルタゴのようになってはいけない、といましめたのである。しかしその後、日本は中国大陸侵略にさらにのめりこみ、太平洋戦争もはじめてしまい、東京、大阪など、多くの都市が焦土と化した。トインビーの予言は的中したと言っていい。不幸中の幸いにして、日本国民は、奴隷化はまぬがれたけれど。
この初来日の際、トインビーは日本人に警鐘を鳴らす一方で、高野山の金剛峯寺を訪ね、この東アジアの信仰心をさぐり、また瀬戸内海の景色を絶賛している。彼は政治家でもビジネスマンでもない、歴史学者なのである。どちらびいきになるでもなく、ものごとをいろいろな視点から見つめて検討し理解しようとする。こういうふところの深さが、トインビーをしてトインビーならしめている重要な要素だと思う。

戦後、1956年に再来日を果たしたトインビーは、日本での講演のなかで、こういう意味のことを述べている。
「日本は、明治以降、先行のロシアをはるかにしのぐスピードで近代化の推進をはかり、西洋列強に対抗して植民地への転落を避けることができた。非西洋文明、とりわけアジア諸国アジア諸国のなかで、日本が自立性とその可能性を実証した歴史的意義は大きいといえる。しかし日本の近代化は、一八九四年の日清戦争以来、軍国主義と国家主義の正当化を主軸として形成されたものであった。今日、日本は、歴史的に前例のない軍事的、政治的敗北を機会に、その非に根本的な反省をくわえなければならない。第二次世界大戦で敗北し、とくに史上初めて原爆を体験した日本こそ、人類に平和への新たな精神的使命を告げ、その基盤をさずけることができる」(吉沢五郎『トインビー』清水書院)
敗戦した国民を激励する、ありがたいことばだけれど、それから半世紀以上たった現在、日本はふたたび、軍国主義と国家主義の正当化へと後もどり戻りする方向へ動きだしているように、自分には感じられる。

英国中心、欧州中心の歴史観を脱却して、大きく文明を見渡したトインビーは、北海道についてこう書いている。
「一八六八年の維新まで、北海道はまだ日本の一地方ではなく、ただ日本の一領土たるにすぎなかった。この島における日本の足場はわずかばかりの兵営所在地にすぎず、それも欲深いロシア帝国に対して日本の権利を主張するために、おくればせながら設置したものであった」(黒沢英二訳『東から西へ』毎日新聞社)
これを読んだとき、自分はかなりの衝撃を受けた。
「ああ、外の人から見れば、そう見えるのかぁ。まあ、実際、その通りだけれど」と。
日本人は、あたかも北海道や沖縄がずっと昔から日本の一部だったというような顔をしたがるけれど、じつは日本は、アイヌの人々が住む土地であった北海道を侵略し、琉球王国を侵略し、ぶんどったのである。そして、そういう歴史を、外国の人たちはちゃんと知っているのである。

日本のなかにいると、どうしても日本びいきに、ものごとを見がちになる。でも、もしも歴史学を学んだ者であるのなら、もっとクールになって、ほかの惑星からこの地球をながめたくらいの客観性をもって見なくてはいけない。
自分が学校に行っていたころは、社会科の歴史の授業も、ひとつの科学として、資料や学説を冷静に批判、吟味しつつ「ほんとうのところはどうなのか」を見極める、そういう子どもを育てる、という教育方針だったと思う。
それが、最近では、政治家や官僚連中が寄ってたかって、
「子どもたちに愛国心を植えつけるために、歴史はあらかじめ、日本びいきに見るように教えなくてはならない」
みたいな方向へ動きだしていて、ひじょうに危険な傾向にあると思う。
愛国心は愛国心でけっこうだけれど、歴史学にまでひいき目を入れると、批判したり、比較したりする科学的な議論が失われてしまう。それでは、海外の人と話が通じないし、その先にあるのは、国家主義、全体主義の復活であり、世界のなかでの孤立化である。
そういう意味でも、日本人は、トインビーのことをときどき思いだす必要があると思う。
(2013年4月14日)



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