1月10日は、モンタージュ理論で有名なロシアの映画監督、エイゼンシュテインの誕生日である。
セルゲイ・ミハイロヴィチ・エイゼンシュテインは、1898年1月10日、バルト海に面するラトビアのリガで生まれた。ラトビアは当時、帝政ロシアの支配下にあった。
エイゼンシュテインの家系は、その名「~シュテイン」の示す通り、ユダヤ人の血をひく家系で、セルゲイの父親は建築家だった。

エイゼンシュテインは、専門学校で建築を学んだ後、20歳で赤軍に入っている。
復員後は、モスクワの劇場で美術を担当した。
26歳のころ、演劇界から映画界へと転身し、映画『ストライキ』を製作。
27歳のとき、名作『戦艦ポチョムキン』を監督。革命の雄叫びをあげる労働者たちと対比させた、虐殺された民衆の死体が散らばるオデッサの階段を乳母車がひとりでにかたかたと下りてゆく有名なシーンにより、この映画はエイゼンシュテインの名を世界にとどろかせることになる。
以後、『十月』『全線』『アレクサンドル・ネフスキー』『イワン雷帝』などを発表。
1948年、50歳のとき、モスクワで没した。

栄光と名声に包まれた大監督だけれど、その生涯と作品をあらためてたどってみると、激動の時代に生きた悲運の映画監督、といった印象が強い。
エイゼンシュテインが活躍した時代は、戦争と革命のまっただなかだった。
1924年、ロシア革命の指導者レーニンが没し、ロシアは壮絶な権力闘争時代に入った。これが26歳のとき。
そして1930年代には、独裁者スターリンの大粛清により、ロシア内外でおびただしい数の人間が処刑されていく。
とくに1937年には約35万人、翌1938年には約33万人が銃殺されたという。エイゼンシュテインが30代後半のころである。

また、当時のロシア映画の特殊事情がある。
当時のロシアでは、映画の製作と配給は、国家がおこなうものであって、一映画会社や独立系のプロダクションが勝手に映画を作るわけにはいかなかった。レーニンのときに、そういう法令ができていたからである。
エイゼンシュテインを有名にした『戦艦ポチョムキン』にしても、党中央委員会の委託を受けて製作された、党の作品なのである。
そういう状況だったから、エイゼンシュテインの映画製作はつねに国家からの監視のもとでおこなわれ、いちいち文句をつけられ、修正を余儀なくされたり、あるいは未完のままお蔵入りになったりした。
『全線』はタイトルとラストシーンを変更させられたし、『ベージン草原』は未完のまま放棄させられ、『アレクサンドル・ネフスキー』は上映禁止、『イワン雷帝』は第一部は激賞されたもの、第二部は上映禁止となった。
『十月』の製作中には、スターリン本人がやってきて、エイゼンシュテインに編集中のフィルムを上映させ、
「今どき、トロツキーの場面を見せるわけにはいかんな」
と、大幅なシーン・カットを直接指示したという。(亀山郁夫『NHK知るを楽しむこの人この世界 悲劇のロシア』)
エイゼンシュテンも、粛清されない程度に、ひそやかに、映画作りのなかで抵抗をこころみたようだ。が、そうした抵抗のほとんどは上記のように、上映禁止という形で押しつぶされてしまった。

ずっと以前、自分は『戦艦ポチョムキン』を新宿の名画座でみた。
死体累々の広場の階段を、赤ちゃんをのせた乳母車が、誰も押さないのに、ひとりで、かたん、かたんと、下りていく。その静かさ、冷たさ。戦争というものを象徴する、この名場面中の名場面は、よく記憶に残っている。
当時ですでに50年前の映画だったから、なんだか歴史的建造物を見学しているようなところもないではなかったが、その圧倒的な勢いで押してくる「力」は感じた。
フランスのヌーヴェルバーグに決定的な影響を与えたという中平康監督の「狂った果実」にも通じる、ある熱狂的な「力」。
こんな力量をもったエイゼンシュテインが、もしも、もっと自由な時代に、自由な環境で映画作りができていたら、どんなすごい作品を作ったろうか、と、ときどき想像する。
大ヒット作を連発したかもしれないし、案外ヒット作は作れなかったかもしれないけれど、いずれにせよ、映画史にナイフを突きたてて残るような、強烈なインパクトのある作品を撮っただろうことは、まちがいないと思う。
自分は、いまの環境なら、もっとできるし、やれることがあるはずだ、そういうことを考えさせられる。
(2013年1月10日)


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