1月1日は、ジョン万次郎の誕生日である。
ジョン万次郎こと、中浜万次郎は、文政10年1月1日に、高知県(土佐)で生まれた。江戸時代末期、明治維新まであと40年というころである。
漁師の子で、8歳で父親をなくし、家族のために働いていたので、読み書きはまったくできなかったらしい。
14歳のとき、万次郎は漁にでて遭難する。
仲間と漂流し、無人島に流れついたところを、運良くアメリカの捕鯨船に救助される。
いっしょにいた4人の漁師たちは、ハワイのホノルル港でおろされたが、万次郎ひとりは、船長のウィリアム・ホイットフィールドに、どうか米国本土へ連れていってくれるようにと頼みこんだ。
ホイットフィールドは、万次郎にみどころがあると思ったのだろう、彼に「ジョン・マン」というニックネームをつけると、船に同乗させ、米西海岸まで連れていき、ジェイムズ・エイキンという男に万次郎を託した。
受けとったエイキンは、大陸横断、万次郎を東海岸のマサチューセッツ州まで連れていき、そこのオクスフォード大学に入れた。それが、16歳のときである。
オクスフォードで1年間学んだ万次郎は、ホイットフィールドの口利きで、捕鯨船に乗りこんで働いた。
捕鯨船でも彼は優秀さを発揮し、仲間からの信頼も厚かった。
そうして、23歳で船をおりたとき、万次郎は350ドルを自分のお金としてもっていた。
そのお金を元手に、当時ゴールドラッシュにわいていたサンフランシスコへいき、サクラメント川で金採掘に従事して、数カ月で所持金を600ドルまでに増やした。
これを使って、万次郎は日本へ帰ることを決意。
ハワイ、ホノルルへ渡った万次郎は、帰国用のボートを買い求め、帆船に積み込んでもらって出発した。そうして、沖縄(琉球)の沖でボートをおろしてもらい、ついに沖縄に上陸する。これが1851年、万次郎が24歳のとき。
沖縄についてからが、また長かった。帰国した万次郎はまず、当時沖縄を支配していた薩摩藩の取り調べを受け、それから幕府側に引き渡され長崎の奉行所で取り調べを受けた後、土佐藩に引き渡され、高知で取り調べを受けた後、ようやく帰郷が許された。それが25歳のとき。
海で遭難してから、11年目にして、ようやく故郷の土に立つことができたのである。
万次郎は土佐藩の藩校の教師となり、その後、米国からやってきたペリーによって開港を迫られていた幕府によって江戸へ招聘され、旗本の身分にあげられ、軍艦教授所の教授となった。
それまで彼には名字がなく、ただの万次郎だったのが、士分となるにあたり、故郷の地名「中浜」を名字として、このとき中浜万次郎となった。
その後、万次郎は江戸幕府の通訳となり、日本を代表する遣米使節団の一員となって、勝海舟らとともに咸臨丸に乗りこみ、米国へふたたび渡り、日米修好通商条約の批准書を交換した。
彼は土佐の同郷の後藤象二郎、岩崎弥太郎、坂本龍馬らに直接見聞を伝え、明治以降の日本に大きな影響を与えた。
明治に入った1870年、43歳のとき、普仏戦争視察団としてヨーロッパへおもむいた際、帰国の途上で、かつての恩人、ホイットフィールドと再会を果たしている。
1898年、万次郎は72歳で没した。墓は、東京・池袋の雑司ヶ谷霊園にある。
それにしても、万次郎が米国オクスフォード大で勉強した1年間、その期間の彼の猛勉強ぶりたるや、おそろしいものだったにちがいない。
それまで日本語の読み書きさえ知らなかったところを、たる酒屋で丁稚奉公しながら、英語と航海術を同時に学び、彼は完全に自分のものにした。
その1年間に築いた学力を元手に、それからの7年間、たったひとりで英語圏を渡り歩き、海の上で、また金採掘現場で働いて、帰国の費用を作ったのである。
万次郎は、もともとなんら教育らしいものを受けていない、まったくの無教養だった漁師の子どもである。
そういう一介の漁師が、絶望的な状況におかれ、いざ本気になると、ものすごい知的能力を発揮して、自力で道なき道を切り開き、魅力的で、頼りになる国際人に変貌できるのである。
ジョン万次郎の生涯は、後世を生きるわたしたちを勇気づけてくれる気がする。
わたしたち一人ひとりのうちには、まだまだ自分でも気がついていない、巨大な知的可能性が眠っている、そういう気がしてくる。
(2013年1月1日)
●おすすめの電子書籍!
『1月生まれについて』(ぱぴろう)
ジョン万次郎、盛田昭夫、村上春樹、三島由紀夫、デヴィッド・ボウイ、モーツァルトなど1月誕生の31人の人物評論。人気ブログの元となった、より長く、深いオリジナル原稿版。1月生まれの教科書。
www.papirow.com
ジョン万次郎こと、中浜万次郎は、文政10年1月1日に、高知県(土佐)で生まれた。江戸時代末期、明治維新まであと40年というころである。
漁師の子で、8歳で父親をなくし、家族のために働いていたので、読み書きはまったくできなかったらしい。
14歳のとき、万次郎は漁にでて遭難する。
仲間と漂流し、無人島に流れついたところを、運良くアメリカの捕鯨船に救助される。
いっしょにいた4人の漁師たちは、ハワイのホノルル港でおろされたが、万次郎ひとりは、船長のウィリアム・ホイットフィールドに、どうか米国本土へ連れていってくれるようにと頼みこんだ。
ホイットフィールドは、万次郎にみどころがあると思ったのだろう、彼に「ジョン・マン」というニックネームをつけると、船に同乗させ、米西海岸まで連れていき、ジェイムズ・エイキンという男に万次郎を託した。
受けとったエイキンは、大陸横断、万次郎を東海岸のマサチューセッツ州まで連れていき、そこのオクスフォード大学に入れた。それが、16歳のときである。
オクスフォードで1年間学んだ万次郎は、ホイットフィールドの口利きで、捕鯨船に乗りこんで働いた。
捕鯨船でも彼は優秀さを発揮し、仲間からの信頼も厚かった。
そうして、23歳で船をおりたとき、万次郎は350ドルを自分のお金としてもっていた。
そのお金を元手に、当時ゴールドラッシュにわいていたサンフランシスコへいき、サクラメント川で金採掘に従事して、数カ月で所持金を600ドルまでに増やした。
これを使って、万次郎は日本へ帰ることを決意。
ハワイ、ホノルルへ渡った万次郎は、帰国用のボートを買い求め、帆船に積み込んでもらって出発した。そうして、沖縄(琉球)の沖でボートをおろしてもらい、ついに沖縄に上陸する。これが1851年、万次郎が24歳のとき。
沖縄についてからが、また長かった。帰国した万次郎はまず、当時沖縄を支配していた薩摩藩の取り調べを受け、それから幕府側に引き渡され長崎の奉行所で取り調べを受けた後、土佐藩に引き渡され、高知で取り調べを受けた後、ようやく帰郷が許された。それが25歳のとき。
海で遭難してから、11年目にして、ようやく故郷の土に立つことができたのである。
万次郎は土佐藩の藩校の教師となり、その後、米国からやってきたペリーによって開港を迫られていた幕府によって江戸へ招聘され、旗本の身分にあげられ、軍艦教授所の教授となった。
それまで彼には名字がなく、ただの万次郎だったのが、士分となるにあたり、故郷の地名「中浜」を名字として、このとき中浜万次郎となった。
その後、万次郎は江戸幕府の通訳となり、日本を代表する遣米使節団の一員となって、勝海舟らとともに咸臨丸に乗りこみ、米国へふたたび渡り、日米修好通商条約の批准書を交換した。
彼は土佐の同郷の後藤象二郎、岩崎弥太郎、坂本龍馬らに直接見聞を伝え、明治以降の日本に大きな影響を与えた。
明治に入った1870年、43歳のとき、普仏戦争視察団としてヨーロッパへおもむいた際、帰国の途上で、かつての恩人、ホイットフィールドと再会を果たしている。
1898年、万次郎は72歳で没した。墓は、東京・池袋の雑司ヶ谷霊園にある。
それにしても、万次郎が米国オクスフォード大で勉強した1年間、その期間の彼の猛勉強ぶりたるや、おそろしいものだったにちがいない。
それまで日本語の読み書きさえ知らなかったところを、たる酒屋で丁稚奉公しながら、英語と航海術を同時に学び、彼は完全に自分のものにした。
その1年間に築いた学力を元手に、それからの7年間、たったひとりで英語圏を渡り歩き、海の上で、また金採掘現場で働いて、帰国の費用を作ったのである。
万次郎は、もともとなんら教育らしいものを受けていない、まったくの無教養だった漁師の子どもである。
そういう一介の漁師が、絶望的な状況におかれ、いざ本気になると、ものすごい知的能力を発揮して、自力で道なき道を切り開き、魅力的で、頼りになる国際人に変貌できるのである。
ジョン万次郎の生涯は、後世を生きるわたしたちを勇気づけてくれる気がする。
わたしたち一人ひとりのうちには、まだまだ自分でも気がついていない、巨大な知的可能性が眠っている、そういう気がしてくる。
(2013年1月1日)
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ジョン万次郎、盛田昭夫、村上春樹、三島由紀夫、デヴィッド・ボウイ、モーツァルトなど1月誕生の31人の人物評論。人気ブログの元となった、より長く、深いオリジナル原稿版。1月生まれの教科書。
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