6月26日は、ゴロ合わせで「露天風呂の日」。この日は、戦闘機設計者メッサーシュミットが生まれた日(1898年)だが、女流作家パール・バックの誕生日でもある。

パール・サイデンストリッカー・バックは、1892年、米国ウェスト・ヴァージニア州ヒルスボロで生まれた。父親は長老派教会の宣教師で、それまで10年間、中国で伝道活動をしていて、10年ぶりの休暇をもらって帰郷していた、そのときにパールが誕生した。
パールが生後3カ月のころ、家族は中国へ引き返した。パールは中国の江蘇省で、中国語と英語を話すバイリンガルの環境で育った。彼女をかわいがり大事に育てた中国人の乳母は、纏足をしていて、足の長さが7・5センチメートルほどだったという。乳母のほか、家に出入りする中国人やインド人医師、日本人、ビルマ、タイ、インドネシアなど、さまざまな国籍の人たちから、身の上話を聞きながらパールは大きくなった。
18歳のとき、米国ヴァージニア州へ引っ越し、大学に入学。この大学在学中に、短編小説と詩で、2度文学賞を受賞した。
22歳のとき、大学を卒業し、同大学の助手となったが、中国にいる母親が病気になり、その看護のため中国へもどった。
25歳のとき、米国人の農業経済学者と結婚。
29歳のとき、女児を出産したが、この子が先天的に障害があって、後に米国の施設預けることになった。母親のパールはひとつには、この娘の養育費を捻出するためもあって、評論や小説に力を入れた。
35歳のとき、中国国民党軍が、彼女のいた南京に侵入してきて、彼女たち一家は、日本の長崎の雲仙に疎開した。
38歳のころ、長篇小説『大地』を発表。戦乱の近代中国を背景に、王一族の生きざまが描かれるこの作品はピュリッツァー賞を受賞した。
また、彼女は、46歳のとき、ノーベル文学賞を受賞。受賞理由は、両親の伝記執筆に対してだった。彼女の受賞は『さまよえる湖』の著者、スヴェン・ヘディンの推薦によるものだという。彼女は1973年3月、米国ヴァージニア州ダンビーで、胆のう炎の手術後に没した。80歳だった。

米国製テレビ・ドキュメント「中国共産党」を見た。清朝末期から、義和団事件、軍閥の群雄割拠、日本軍の侵略、中国国民党と中国共産党の対立、抗日戦争、日本敗戦後の中国の内戦までの歴史が貴重な記録入りで描かれるのだけれど、このなかにパール・バックのインタビューが入っていて、子供のころの思い出を語っていた。
西太后の命令で、中国国内にいる白人がいっせいに殺されたことがあって、とくに山東省ではひどく、女、子ども、宣教師や商人まで殺された。しかし、彼女がいた江蘇省では、総督が勇気をもって命令にそむき殺さなかった。それで彼女らは命が助かった。
中国軍閥のおかしな戦争風景や、蒋介石の印象など興味深い証言をしていた。

パール・バックは日米混血の浮浪児の救済に尽力した親日派で、鋭い指摘がある。
「一般に日本人は集団本能が強く、他人と違うことを恐れるようです。これは大体あたっています。日本人は個人主義に強い緊張を感じます。作家や芸術家にとくにその傾向が強く、全体的には他人がするようにしたがります」(小林政子訳『私の見た日本人』国書刊行会)
(2025年6月26日)

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