本田宗一郎は、1906年、静岡県磐田郡光明村で生まれた。父親は鍛冶屋だった。
小学校の成績が悪く、通知表を親に見せられず、自分で認め印を彫って押し、通知表を学校へもどしたという宗一郎は、16歳の年に東京の自動車修理工場に就職した。
22歳のころに、のれん分けを許され、静岡県浜松市に支店を構え、独立した。
30代の前半には、エンジンの技術力を上げるため、金属加工の学問が不可欠であると痛感し、現在の静岡大学工学部に3年間通った。
敗戦の年である1945年、39歳のとき、自分の会社の株式をすべて売却し、1年間の「人間休業」に入った。
そうして、戦後の物不足、食料難の時代に、自転車にエンジンを付けたら買い出しが楽になるのでは、という発想から二輪車の研究をはじめ、40歳になる年、浜松市に本田技術研究所を設立。42歳の年には、本田技研工業を従業員20人でスタートさせた。
以後、ホンダは、国内はもとより、世界的に有名なオートバイ・メーカーとなり、四輪車にも進出し、自動車産業界でも世界屈指の大企業となった。
67歳の年に社長を退き、さらに研究だけは続けていたが、77歳のころ、現場から引退し、1991年8月、入院していた東京の病院で肝不全のため没した。84歳だった。
学校を出たばかたのころ、自分は本田宗一郎の話を聞いたことがある。新入社員向けの講演会だった。その講演中、ステージ上の演壇でマイクをにぎっていた本田が不意に話すのを止めた。そして、会場の中央を指さして怒鳴った。
「おいっ、そこの。むだ話をしているんなら、出ていけ!」
うつらうつら、眠りかけながら話を聞いていた自分は、それではっと目が覚めた。会場は水を打ったように静まり返っていた。どうやら、客席のまん中にいたどこかの新入社員の男が、隣の同僚とぺちゃくちゃしゃべっていたらしい。
「おいっ、話を聞いてないんなら、とっとと出ていけ!」
本田宗一郎は繰り返し言った。指さされた男は動かず、なにも答えなかった。自分は、
「バカなやつだなあ。立ち上がって、頭を下げて『すみませんでした。もう無駄口はききませんので、話を聞かせてください』とでも謝れば、すっきりするのに」
と思ったが、その男は黙ったままだった。
演壇の本田宗一郎は、じっとにらんでいたが、やがて気をとり直して、講演を続けた。
本田宗一郎といえば、裸一貫から身を起こし、自分の会社を世界企業へと育て上げ、以前は安く質が悪いものの代名詞だった「メイド・イン・ジャパン」を、安価で良品質の製品の代名詞へと意味を変えさせた、日本の功労者である。けれど、そんな成功者でも、経営が苦しくて、自殺しようと思ったこともあるというのだから、事業の道というのは、ほんとうにきびしいものだ、と、その話す姿を見ながら、自分はそんなことを考えていた。
本田宗一郎に怒鳴られた、あの幸福な男は、いまごろどこでどうしているかしら、と、ふと思いだすときがある。
(2015年11月17日)
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