8月8日・新渡戸稲造の国際人 | papirow(ぱぴろう)のブログ

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8月8日は、アニメ映画「攻殻機動隊」の押井守が生まれた日(1951年)だが、教育者、新渡戸稲造(にとべいなぞう)の誕生日でもある。以前、五千円札の肖像だった人である。

新渡戸稲造は、文久2年(1862年)に、岩手の盛岡(当時の盛岡藩)で生まれた。幼名を、稲之助といい、父親は藩の勘定方の役人で、その三男だった。
稲造が生まれたのは、桜田門外の変があった動乱の年で、明治維新があったのは、彼が6歳のときである。
9歳のとき兄に連れられて上京し、東京にいた洋服屋の叔父の家の養子となり、そこから学校へ通った。外国語学校で英語を学んだ後、15歳の年に札幌農学校(現在の北海道大学)に進んだ。クラーク博士が「少年よ、大志を抱け」と言って農学校を去ったのとちょうど入れ違いに入学した恰好だった。
農学校を卒業後、東京大学に在籍したり、役所の手伝いをしたり、学校の教師をしたりした後、22歳の年に私費で米国へ留学。米東部メリーランド州の大学で農政、農業経済学を学んだ。また、この米国滞在中にクエーカー教(フレンズ)の会員となった。
29歳のとき、米国女性と結婚し、帰国して札幌農学校の教授となった。以後、学校を設立し、高校の校長になり、大学の学長につきと、教育分野を中心に活躍した。
38歳のとき、英語で書いた『武士道』(BUSHIDO: The Soul of Japan)を出版。この本はたちまち評判を呼び、仏語、独語などに翻訳され、世界中で読まれた。日本語版が出たのは、その8年後だった。
58歳のとき、国際連盟の事務次長に就任。国際社会の協調に尽力するとともに、しだいに軍国主義の色合いが強まる日本と、日本を非難する諸外国とのはざまで、国際協調のため奔走した。
1933年、新渡戸はカナダで開かれた国際会議に日本代表団の団長として出席し、会議を終えた後に倒れた。そして、同年10月、西海岸のビクトリア市で没した。71歳だった。

米国の自分の友人にはクエーカー教徒がすくなくない。平等主義、平和主義、博愛主義で、質素を尊び、自分の良心の光が照らす道を信じて行動する人々で、自分は彼らをとても尊敬している。

新渡戸は51歳のとき、道友会という会の講演でこう言っている。
「例えば自分に背かぬという精神、正しいと思えばその通りをやるという真面目に於て、日本人の到底及ばぬものが、米人にある。(中略)
 また話をするにしても、西洋人に向ては精神上の話が出来るが、日本人には出来ぬ。情けない事だが、道友会なればこそ、これだけの話も出来るのである。
 時々、胸襟(きょうきん)を開いて話をしては馬鹿を見る、度々「お前もか」というような目に遇(あい)て、失望することが多い。要するに吾々日本人は、人格なるものを認知し得ないのではなかろうか。
 階級で人を度(はか)ったり、衣服で人を度ったり、ないしは成功で人を度ったり、官吏ならば、勅任だの、奏任だのと、官等で人を度ったり、あるいはまた学問や技芸で人を度ったりして、人格で人を度らぬ、附属で人を度って人格で人を度らぬ。全く今の日本には男一匹の交際が少ない。」(「人格を認知せざる国民」)
新渡戸は国際人だった。
(2015年8月8日)



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