北原白秋こと、北原隆吉は、1885年、福岡県の柳川で生まれた。家は江戸時代からつづく海産物問屋の大店で、酒の醸造と米の精米をする地方有数の商家だった。
ほんとうは白秋の上に長男がいたが、生後間もなく死んだので、隆吉は「トンカ・ジョン(良家の長男の意)」と呼ばれ、長男として育てられた。
文学好きの隆吉は、16歳のときに雅号を「白秋」と決めた。そのころ、町の62戸が消失したという大火事に巻き込まれ、彼の家の酒倉が全焼するという災難に見舞われた。酒だけに火ははげしく延々と燃えた。北原家では、借金をして、新たに酒倉を再建したが、このときの借金が重くのしかかり、北原家はしだいに傾きだした。
白秋は19歳のとき上京。早稲田大学の予科に入り、学報や同人誌などに詩を投稿し、いよいよ詩人としての活動を開始した。24歳のとき、処女詩集『邪宗門』を出版。官能的、耽美的なこの象徴詩によって文学界に衝撃が走った。
同じ年、柳川の実家が破産。家族は白秋を頼って上京してきた。
26歳のとき、第二詩集『思ひ出』出版。この詩集は、日本文学史上、もっとも成功した詩集ともいわれ、白秋の名声は一気に高まった。
27歳のとき、人妻と恋愛関係ともち、相手の夫から姦通罪で訴えられ、白秋は2週間拘置所に入った。出所した白秋は、自殺しに神奈川県の三浦三崎へ行った。2週間滞在したが、結局自殺は果たせなかった。白秋はこのときの心境についてこう述べている。
「どんなに突きつめても死ねなかつた、死ぬにはあまりに空が温く日光があまりに又眩しかつた」(「ザンボア後記」『新潮日本文学アルバム北原白秋』新潮社)
このどん底の状況から、白秋は書きはじめた。
以後、歌集『桐の花』、詩集『白金之独楽』、歌集『雲母集』、詩集『水墨集』、詩集『海豹と雲』などを出版。並行して数多くの童謡を書き、関西学院大学、大正大学、同志社大学、駒澤大学ほか多数の大学、学校の校歌を作詩した。
52歳のとき、糖尿病と腎臓病の合併症による眼底出血により視力喪失。以後は口述筆記で詩歌を詠んだ。1942年11月、糖尿病、腎臓病の悪化により死去。57歳だった。
困難と闘った苦闘の人生であり、才能を華々しく輝かせた人生でもあった。
北原白秋は、自分にとっては「詩聖」と呼ぶべき存在で、彼の詩集『邪宗門』『思ひ出』を復刻版でもっていて、ペーパーナイフを片手にときどきひもとく。至福の時間である。九州の柳川にある白秋の生家を訪ねたときには、まったく夢心地だった。
「われは思ふ、末世の邪宗、切支丹(きりしたん)でうすの魔法。
黒船の加比丹(かひたん)を、紅毛の不可思議国を、
色赤きびいどろを、匂鋭(にほひと)きあんじやべいいる、
南蛮の桟留縞(さんとめじま)を、はた阿刺吉(あらき)、珍た(ちんた)の酒を。」(「邪宗門秘曲」『邪宗門』)
酔ってしまう。日本語の魔術師だった、と思う。
(2015年1月25日)
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