12月1日・小林多喜二の時代 | papirow(ぱぴろう)のブログ

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もう師走。12月1日は、虐殺された作家、小林多喜二(こばやしたきじ)の誕生日である。

小林多喜二は1903年、現在の秋田・大館で生まれた。小作農家の次男だった。
多喜二が4歳のとき、北海道の小樽で工場を経営する伯父を頼って一家で引っ越した。多喜二は工場で働くかわりに伯父に学資を出してもらい、小樽の商業学校、高等商業学校へ進んだ。そのころから彼は文芸誌に投稿し、労働運動に参加する活動的な生徒だった。
学校を卒業後は、銀行の小樽支店に勤務した。
25歳の年に、治安維持法とセットになった普通選挙法に基づく第一回普通選挙があり、小林は労働農民党から出馬した候補の選挙活動を手伝った。しかし、候補は落選した。
同年、共産党の関係者が一斉に弾圧された三・一五事件があり、小林はこれを題材に小説『一九二八年三月十五日』を発表。作品のなかに、特別高等警察(特高)による生々しい拷問の描写があり、注目を浴びるとともに、特高の恨みを買った。
26歳のとき『蟹工船(かにこうせん)』『不在地主』を発表。社会の矛盾を強烈にえぐるプロレタリア文学の旗手となったが、銀行をクビになった。
その後、小林は政治活動、逮捕、釈放、また政治活動、逮捕を繰り返した。
28歳のとき、奈良に小説家・志賀直哉を訪ねた後、小林は地下に潜伏した。
29歳のとき、運動側に潜入していた特高側スパイの計略にはまり、小林は逮捕され、連れ込まれた築地警察署内で拷問を受け、死亡した。1933年2月20日。29歳だった。

築地署で小林は裸にされて吊るされ、棒で殴打され、あちこちを錐(きり)で突かれた。自分も遺体の写真を見たけれど、実家へ運ばれた遺体はどす黒く内出血し、穴が点々とあった。金玉など三倍くらいに腫れ上がっていたらしい。明らかに拷問死だったが、警察側は「心臓麻痺」とした。遺族は医者を呼んで検死を頼もうとしたが、特高を恐れ、来てくれる医者はいなかった。葬儀も特高が見張り、累が及ぶのを恐れて弔問客はほとんどなかった。

自分は志賀直哉の書簡を読んで小林多喜二のことを知った。手紙のなかで志賀は小林の『蟹工船』と『三・一五』をほめ、露骨な描写も作者の態度が誠実で不快な感じを与えない、しかし運動意識がないほうがもっと芸術的で強くなると評していた。誰もがかかわりを避けるなか、志賀は彼の死の報に接し、遺族へお金を添えて手紙を送っている。
「御令息御死去の趣き新聞にて承知誠に悲しく感じました。前途ある作家としても実に惜しく、又お会ひした事は一度でありますが人間として親しい感じを持つて居ります。不自然なる御死去の様子を考へアンタンたる気持になりました。
御面会の折にも同君帰られぬ夜などの場合貴女様御心配の事お話しあり、その事など憶ひ出し一層心中御察し申上げて居ります。同封のものにて御華お供え頂きます。「『志賀直哉全集 第十六巻』岩波書店)

当時、日本の侵略を受け、抗日運動の盛んな中国にいた魯迅は、小林多喜二の死の報を聞き、上海から日本語で追悼文を「プロレタリア文学」誌に寄せた。
「日本と支那との大衆はもとより兄弟である。資産階級は大衆をだまして其の血で界をゑがきつつある。
 併し無産階級と其の先駆達は血でそれを洗つて居る。
 同志小林の死は其の実証の一だ。
 我々は知つて居る。我々は忘れない。
 我々は堅く同志小林の血路に沿つて前進し握手するのだ。」(「同志小林の死を聞いて」『魯迅選集 第十二巻』岩波書店)

現代日本では、公安・警察は盗聴もOKで、この12月10日から施行される秘密保護法をかざせば、逮捕理由さえ明かさず拘留できる。権力側はねらった人物を自由に社会から抹殺できる。
いま、小林多喜二が死んだ時代が、ふたたび再現されつつあると思う。
(2014年12月1日)




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