フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキーは、1821年10月30日(グレゴリオ暦だと日付が異なる)に、帝政ロシアのモスクワに生まれた。父親は病院に勤める医師で、フョードルは7人きょうだいの上から2番目、次男だった。
父親はかんしゃく持ちの厳格な男で、自分の子どもたちに直立不動の姿勢をとらせてラテン語を教え、聖書とロシア史の本を読ませた。フョードルは内向的で寡黙な子に育った。
13歳から3年間、私立学校の寄宿舎ですごした後、フョードルは16歳でサンクトペテルブルクの陸軍工科学校に入った。在学中だった18歳のとき、酒びたりになっていた父親が自分の農場で働く農奴に殺された。
父親の死によって、後見人から年金がもらえるようになったフョードルは学校を卒業し、陸軍に入った。彼は高い家賃を払って邸宅を借り、召使を雇って暮らした。気前のいいフョードルにつけこんで、使用人たち周囲の者は主人のツケで生活した。フョードルはどんどん借金をしてそれをまかなった。そしてとうとう借金で首がまわらなくなった彼は、借金を清算し、年金をもらう約束と引き換えに、自分の相続権を後見人に売り渡した。そうして、23歳のとき、陸軍をやめて小説執筆に専念しだした。
25歳の年に処女作『貧しき人々』を発表。デビュー作は好評をもって迎えられた。
ドストエフスキーはそのころ、ミハイル・ペトラシェフスキーという外務省の翻訳官が主宰するユートピア的社会主義の勉強会に参加していたが、この会員がいっせいに逮捕され、ペトラシェフスキーとドストエフスキーを含む21名に銃殺刑の判決が下った。28歳のドストエフスキーは仲間とともに刑場へ引っ張り出され、柱にくくられた。射撃主たちが銃をかまえた。そのとき、勅令書が読み上げられ、流刑に減刑されることが伝えられた。ドストエフスキーは柱から引き離され、シベリアへ送られた。
33歳の年に出獄した後、ドストエフスキーはさらに5年間、兵隊として服役しなくてはならなかった。そして、ようやく軍務から解放されたドストエフスキーは、40歳のとき、シベリア体験をもとに書いた『死の家の記録』を発表。以後、賭博に手を出しては借金を作り、返済と締め切りに追われながら小説を書きつづける生活を送った。実体験のこもった『賭博者』や、四大長編『罪と罰』『白痴』『悪霊』『カラマーゾフの兄弟』を書いた後、1881年1月、サンクトペテルブルクで没した。59歳だった。
小学校のとき、自分は児童文学全集の『罪と罰』を読んだ。ドストエフスキーを読んだ最初だった。強烈な印象で、これぞ小説だと感じた。その感想はいまでも変わっていない。
どういうことかというと『罪と罰』では、ラスコリーニコフという青年が金貸しの老婆を殺す。殺人にいたるまでのディテイルがすでにすばらしいのだけれど、殺してしまった後がこの小説の本番になる。これから彼は人間として自分にどう向き合っていくのか、どう生きていくのか、ということがその後に書かれていく。これこそが伝統的な本格小説だと思うのである。
対照的な例を挙げるならば、たとえば典型的な推理小説は、事件が起こって、探偵が謎を解き、犯人が特定されて終わる。これは本格小説ではない。罪を犯した犯人が、これから自分とどうやって自分と向き合い、生きていくいくのか、これを書いたものが、伝統的な本格小説だと思う。その意味で『罪と罰』は本格小説の教科書である。ドストエフスキーについて書きだすと止まらない。強烈な魅力の作家である。
(2014年10月30日)
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