4月30日・ド・ラ・サールが守護するもの | papirow(ぱぴろう)のブログ

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4月30日は、魔女たちの集まるヴァルプルギスの夜。この日は、天才数学者、ガウスが生まれた日(1777年)だが、学校教師の守護聖人、ド・ラ・サールの誕生日でもある。ラサール石井とか、ラ・サール高校とかいうときの「ラ・サール」の源である。自分はごく最近まで「ラ・サール」の名の由来をまったく知らなかった。

ジャン=バティスト・ド・ラ・サールは、1651年、フランス北東部の街ランスの裕福な家庭で生まれた。いちばん最初の子どもだった彼は、11歳で頭を丸め、15歳でランス大聖堂にの僧侶となった。
学業成績が優秀だったド・ラ・サールは、さらに高等教育を受けるべくカレッジに入学し、学位を取得した後、19歳でパリの神学校に入った。
しかし、20歳のころに、母親と父親があいついで亡くなり、4人の弟と2人の妹の面倒をみるため、神学校を退校して故郷へもどった。
故郷ランスでド・ラ・サールはしだいに、教育に熱を入れはじめた。当時は貧富の差がひどい時代で、貧しい一般庶民の子として生まれた者は将来になにも期待できなかった。ド・ラ・サールは、教育こそ未来を切り開くカギだと考え、同じような理想をもって苦闘している土地の教師たちを自宅に招いて食事をふるまった。食事をしながら、彼らにテーブルマナーを教え、やがて彼らを自宅に住まわせて、いっしょに暮らしながら彼らを指導するようになった。これは身内の猛反発をくらい、ド・ラ・サール一族内での訴訟沙汰になり、一家の当主はついに家を追いだされて、べつに家を借りて教師たちと同居しなくてはならなくなった。
彼の、いっしょに、団体を作り、すべての人に教育を、というやり方は、カトリック教会側の気に入らなかった。さらに当時は学問は僧侶によってラテン語で教えられるのが常識だったが、ド・ラ・サールのラ・サール会(キリスト教学校修士会)は土地土地のことばで授業をした。教会の圧力にもかかわらず、彼のやり方は広まり、34歳のときには、ランスに世界初の師範学校(教師のための学校)を創立した。
ド・ラ・サールは生涯、教会からの圧迫に苦しんだ後、1719年4月、ルーアンで没した。67歳だった。

ド・ラ・サールの志は世界各国の修道士に受け継がれて広まり、ローマ教皇もこれを認め、ド・ラ・サールは没した180年後に聖人に列せられ、230年後に教育者の守護聖人ということになった。
現在、ラ・サール会は全世界で千以上の学校を経営していて、日本にも、函館や鹿児島に学校があり、東大などへの高い進学率を誇る進学校として知られている。芸能タレントのラサール石井は鹿児島の私立ラ・サール高校を出ているところからこの芸名があり、また仙台には児童養護施設ラ・サール・ホームがある。

日本でも、昔は学問といえば、比叡山で漢文で教わるものだったけれど、ヨーロッパでも同様で、学問といえばラテン語だった。
それを一般庶民へと開いたのが、ダンテがイタリア語で書いた『神曲』であり、ルターが訳した『ドイツ語版新訳聖書』であり、ラ・サール会の学校、ということになるのだろう。ラ・サールというのは、学問を広く世の人々に開いた、そういう立派なことをした人だったのですね。勉強になりました。
(2014年4月30日)



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