4月14日は、歴史家アーノルド・トインビーが生まれた日(1889年)だが、教師、アン・サリヴァンの誕生日でもある。ヘレン・ケラーの家庭教師である。
目、耳、ことばが不自由な三重苦の人、ヘレン・ケラーのことは、自分は小学校低学年のころから知っていたし、サリヴァン女史の名前も知っていた。子どものとき、自分はこう思った。たしかに障害を克服して勉学し人間の力を示したヘレン・ケラーもえらいけれど、聞き分けのないケラーを、忍耐強く教えたサリヴァン先生のほうが、自分には及びがたい、と。
アン・サリヴァンは1866年、マサチューセッツ州フィーディング・ヒルで生まれた。本名はジョアンナ・マンズフィールド・サリヴァン。両親はアイルランドの大飢饉から米国へ逃げてきた移民で、農家だった。ジョアンナは長女で、下に弟がいた。
生まれたときから「アン」の愛称で呼ばれていた彼女は、5歳のときトラホームにかかり、目が見えなくなった。アンが8歳のとき、母親が亡くなると、父親は養育を断念して、2人の子を施設救貧院へ預けた。アンの弟は入院後ほどなくして亡くなった。
子どもで満杯の貧窮院で、当初は自暴自棄だったアンも、やがて向学心に目覚め、希望して盲学校へ通うようになり、目の手術を受けて、弱いながら視力が回復した。
貧窮院で7年をすごしたサリヴァンは、卒業生総代となる優秀な成績で同院を卒業。20歳で卒業したその直後、貧窮院にアラバマ州タスカンビアから家庭教師を求める求人が届いた。それは、7歳になる目と耳が不自由で、ことばがしゃべぱれない少女の家庭教師の仕事だった。声をかけられた卒業生サリヴァンは、その依頼を引き受け、北部マサチューセッツを離れ、南部のアラバマへ向かった。
サリヴァンが住みこみで教えるのは、2歳のときに熱病にかかり、以来目が見えず、耳が聞こえなくなり、そのためことばをしゃべれなくなったヘレン・ケラーという娘だった。サリヴァンはヘレンに、既存の手順でことばを教えようとしたが、すぐにそれをやめ、ヘレンの興味が向く方向に沿って教えるやり方に変更した。ヘレンのてのひらに文字を書いて教えることで、半年間に575語を習得させる成果をあげた。
長いあいだことばを失っていたヘレンは、ふたたびしゃべられるようになり、勉強に励みだし、現在のハーヴァード大学を卒業した。さまざまな社会福祉活動にたずさわり、自伝を口述し、各地を講演してまわり、世界中の障害者の心に希望の火を灯した。サリヴァンはその間、ずっとケラーに付き添い、その活動を助けた。
37歳のとき、サリヴァンは、ヘレン・ケラーの自叙伝の編集者、メイシーと結婚し、名前がジョアンナ・マンズフィールド・サリヴァン・メイシーになった。
晩年、病床に伏したサリヴァンは、病床にある彼女を心配して日本からの来日要請を無視していたヘレン・ケラーに、日本へ行くよう勧める遺言を残した後、1936年10月、ニューヨークのフォレストヒルズで没した。70歳だった。
その翌年、ヘレン・ケラーの来日が実現した。
ウィリアム・ギブソン作の戯曲『奇跡の人』は、ヘレン・ケラーとサリヴァンの授業風景を脚色した感動的な劇で、世界各国で繰り返し上演されている。この原題は「The Miracle Worker(奇跡的な働きをした人)」である。すると、タイトルの「奇跡の人」は、ヘレン・ケラーではなく、アン・サリヴァンを指しているのだろう。自分はこの原題をごく最近知った。子どものころ、自分が思ったのと、同じような感じ方をした人が『奇跡の人』の脚本を書いたのだとわかって、なんだかうれしい。
(2014年4月14日)
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