11月7日・キュリー夫人の払った犠牲 | papirow(ぱぴろう)のブログ

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11月7日は、『ソロモンの指輪』を書いたコンラート・ローレンツが生まれた日(1903年)だが、ラジウム、放射能の研究で名高いキュリー夫人の誕生日でもある。
キュリー夫人といえば、自分が子どものころは、エジソン、野口英世、ヘレン・ケラーと並ぶ「世界の四大偉人」のひとりだった。問答無用に「えらい人」だった。でも、実際は、キュリー夫人は「どえらい人」と呼ぶのがふさわしい気がするすごい女性である。

キュリー夫人は、1867年、現在のポーランドのワルシャワで生まれた。本名は、マリア・サロメ・スクウォドフスカ。両親ともに教師だった。
15歳でギムナジウムを卒業した彼女は、経済的な問題から進学できず、家庭教師などをしてお金を貯めた後、23歳のときに仏国パリに出た。
ソルボンヌ大学で、化学と物理学を学びはじめた彼女は、名を「マリア」から「マリー」に改めた。27歳の彼女が出会ったのが、8歳年上のピエール・キュリーだった。
ピエールは大学の教師で、すでに電気や磁気の研究で成果を挙げていた優秀な科学者だった。二人は結婚した。彼女は、マリー・キュリーとなった。
当時、フランスには、放射能の単位に名を残すアンリ・ベクレルという物理学者がいて、ウランが、X線に似た透過力をもつ光線を発することを突き止めていた。キュリー夫妻はこれを研究テーマに据え、粗末、劣悪な実験環境のなかで、大量の鉱石を大鍋で煮て、沈殿させ、ろ過させといった作業を延々と繰り返して精製していく忍耐強い実験を繰り返し、放射能を発する放射性元素を追究していった。そして、彼女が31歳の年、ポロニウム、ラジウムの新元素を発見した。彼女の実験室で濃縮、精製されたラジウムが青い光を放つ光景は、キュリー夫人の伝記のなかでも印象深い名場面である。
彼女が36歳の年、キュリー夫妻は、ベクレルとともに放射性元素に関する研究によりノーベル物理学賞を受賞した。はじめて女性にノーベル賞が授与された歴史的瞬間だった。
38歳のとき、夫のキュリーを交通事故でなくし、未亡人となった彼女は、ソルボンヌ大学の初の女性教授に就任した。
そして44歳のとき、ラジウムとポロニウムの発見とそのほかの研究により、彼女はノーベル化学賞を受賞した。これは、同じ人物が二度ノーベル賞を受賞した初の快挙だった。
マリー・キュリーは、彼女の業績に嫉妬する科学者による中傷や、マスメディアに悩まされ、うつ病と腎臓病に苦しみながらも、科学の研究環境の整備に努め、第一次世界大戦のときには、医療用のレントゲン設備やレントゲンを搭載した車両の配備に尽力した。
1934年7月、療養のため訪れていたパッシーで没した。66歳だった。

マリー・キュリーが生きた時代のフランスは、女性差別がはげしく、彼女はことあるごとに女性蔑視、嫉妬と闘わなくてはならなかった。
顔写真を見ると、彼女はいわゆる器量良しで、とくに若いころはきれいな顔だちの美人である。しかし、研究一辺倒で、化粧っけのない、地味な女性だった。
この辺が、当時らしいフェミニズムだという気がする。色気を抑え、女性の魅力に頼らずに、女性でも男性と同じかそれ以上のことができることをやって見せようとする。
もしも現代のフランスにキュリー夫人が生きていたら、粋なファッションに身を包み、つねに華やかな雰囲気を周囲に振りまきながら、男たちが目をむくような偉大な業績をつぎつぎと打ち立てて、婉然と笑っているのではないか、そんな気がする。
(2013年11月7日)



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