8月27日は、出版社・岩波書店を創業した岩波茂雄が生まれた日(1881年)だが、詩人の宮沢賢治の誕生日でもある。
自分がはじめて読んだ宮沢賢治の詩は「やまなし」で、小学校の国語の教科書に載っていた。自分は、藤原定家、松尾芭蕉、北原白秋と並び、宮沢賢治を日本最高の詩人のひとりだとずっと思ってきたし、それはいまでも変わらない。
宮沢賢治は、日清戦争が終わった翌年の1896年、岩手県の花巻で生まれた。父親は質屋、古着屋の経営者だった。
15歳のころから短歌を作りだした賢治は、18歳のとき、漢和対照の法華経を読み、深い感動を覚えた。盛岡高等農林学校に進んだ彼は、農業を学びながら、「歎異抄」の集中講話を聴きにいくなど、仏教への傾倒を強めた。
22歳の年、農林学校を卒業し、同校の研究生となった。同年、肋膜炎になり、これが彼に生涯つきまとう結核のはじまりだった。このとき彼は友人に、
「自分のいのちもあと十五年あるまい」
と予言したという。(『新潮日本文学アルバム12宮沢賢治』新潮社)
24歳の年、研究生を終了。助教授へ推薦してくれる話があったが、これを断って、法華宗の在家団体である国柱会に入会。
25歳になる年の1月23日の夕方、宮沢賢治はひとりで火鉢にあたり、考えごとをしていた。すると、棚の上から日蓮の本が2冊落ちてきて、彼の背中を打った。瞬間、
「さあもう今だ。今夜だ」
と日蓮聖人に背中を押されたと感じた彼は、そのまま家を出、汽車に乗って上京した。東京の国柱会の本部で布教活動をしながら、友人の勧めにしたがい、童話を書いた。
同年、妹が病気との報受けて帰郷。花巻の農学校教師となり、数学や英語、農学、土木学などを教えた。教師稼業のかたわら、詩や童話を書き、28歳の年に『春と修羅』を自費出版。このころ『注文の多い料理店』『銀河鉄道の夜』などを書いた。
30歳になる年に『オツベルと象』を雑誌へ発表し、高校を退職。以後、肺炎で寝込んだりしながら、農家のための肥料設計や稲作指導をし、詩や童話を書きつづけた。
1933年9月、肺結核により、花巻の実家で没した。37歳だった。
ひとつ方向を決め、極めようとする禁欲的、求道的な姿勢。そして、大地と宇宙がつながり、現世と冥界がつながった魔的な広がり。これが自分にとっての宮沢賢治の魅力である。その姿勢がこれ以上ないくらいにかたくなで、その世界は限りなく大きい。
「『クラムボンはわらつたよ。』
『クラムボンはかぷかぷわらつたよ。』
(中略)
『クラムボンは死んだよ。』
『クラムボンは殺されたよ。』」(「やまなし」)
自分は、子どものころから、この詩には不気味さを感じていて、「子どもふぜいに読ませる詩ではないのではないか」と疑念を感じていたが、いまでもその疑念は消えない。自分は深読みしすぎているのかもしれないけれど。
(2013年8月27日)
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