4/21・シャーロット・ブロンテの人生の闘い | papirow(ぱぴろう)のブログ

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4月21日は、独国の社会学者、マックス・ウェーバーが生まれた日(1864年)だが、英国の女流作家、シャーロット・ブロンテの誕生日でもある。小説『ジェーン・エア』を書いた人である。
自分は小さいころ、テレビで映画「ジェーン・エア」を観た。この小説は、何度も映画化されているけれど、自分が観たのは白黒映画だったから、たぶんオーソン・ウェルズと、ジョーン・フォンテインが主演した作品だと思う。胸にじーんと響く感動作品だった。子ども心に、
「名作だなぁ」
と思った。どっしりとした「名作を観た」という感じが、いつまでも心に残った。

シャーロット・ブロンテは、1816年、英国ヨークシャーのソーントンで生まれた。父親はアイルランド系の牧師だった。
シャーロットは、6人きょうだいの3番目の子どもだった。上に2人の姉がいて、下に1人の弟と2人の妹がいた。
彼女が5歳のとき、母親が没した。結婚後9年間で6人の子を産み、38歳の若さで亡くなったのである。
すると、亡き母親の姉が、ブロンテ家へやってきて、残された6人の子どもたちの面倒をみるようになった。この伯母は厳格な人で、やもめになった義弟とのあいだにあらぬうわさを立てられるのを避けるため、食事は自分の部屋でひとりですませ、子どもたちとは食卓をともにしなかった。
シャーロットが9歳のとき、2人の姉が結核にかかって相次いで亡くなった。これにより、彼女が、母親のいない一家の長女役となり、このことが、シャーロットの生き方に大きく影響することになる。
寄宿学校などをへて、シャーロットは19歳のときから、私立校の教師や家庭教師をして家計を支えた。そうして、彼女はやがて、同じく学校や家庭の教師をするようになった妹たちと、私立の学校を興すことを思い立った。これを伯母に相談すると、伯母も賛同し、資金面で応援してくれることになった。この学校設立の準備として、シャーロットは、すぐ下の妹、エミリ(『嵐が丘』の作者)とともに、フランス語とドイツ語を勉強するためにベルギーに留学した。シャーロットが25歳のときのことだった。
しかし、1年もたたずして、故郷で伯母が没したとの報せを受けとり、2人の姉妹は留学をとりやめて帰国した。このころ、姉妹たちの父親は、体調をくずし、白内障をおこして失明寸前だった。
28歳になったシャーロットは、姉妹3人で協力して学校を興そうと、生徒を募集しはじめた。しかし、田舎のことで生徒が集まらず、学校設立の計画は頓挫してしまった。シャーロットとしては、父親の面倒をみながら、家の近くで仕事をして家計をやりくりする算段だったが、ほかの手を考える必要に迫られた。
彼女ら姉妹は小説を書いて、それで収入を得ようと考えついた。姉妹は原稿を書き、アドバイスし合い、励まし合って、小説を書き上げた。でき上がった原稿を、シャーロットは出版社に送った。拒絶されては、送り返されてきた原稿をまた別の出版社に送ることを繰り返した。
そうした努力が実り、ついに、シャーロットの書いた小説『ジェーン・エア』が、「カラ・ベル」というペンネームで出版された。すると『ジェーン・エア』は、たちまちベストセラーとなり、その勢いを借りて、妹たちの『嵐が丘』『アグネス・グレイ』といった小説も出版された。シャーロットが31歳のときだった。
しかし、32歳のとき、たったひとりの弟がからだを壊して31歳で没した。続けて妹のエミリが結核により30歳で亡くなり、33歳のときには末の妹のアン(『アグネス・グレイ』の作者)も結核にかかり29歳で死亡した。きょうだいがいなくなり、シャーロットはひとりぼっちになった。
その後、シャーロットは『シャーリー』『ヴィレット』などの小説を発表し、38歳で牧師と結婚した。が、新婚旅行中に雨に濡れて風邪をひき、それがよくならぬまま、1855年3月に死亡した。享年38歳だった。
生前のシャーロットが「自分が世話をしなくては」と、つねに念頭においていたという病弱な父親は、シャーロットの没した7年後に、84歳で亡くなっている。

自分は、小説の『ジェーン・エア』を、高校のころに読んだと思う。映画もよかったけれど、やはり原作はさすがにおもしろくて、奥行きが深かった。なるほど、世界文学の高峰に名を連ねる名作である。それが、それまでまったく無名だった作家のデビュー作だというから驚きである。しかも、そういう無名作家の作品が、出版されていきなりベストセラーになったというのだからすごい。賞をとったとか、有名な作家の作品だとか、批評家がほめていたとかでなく、「作品自体に力がある作品」なのである。『ジェーン・エア』は、拙著『ここだけは原文で読みたい! 名作英語の名文句』のなかでも取り上げた。

ブロンテ家の家族の運命ということについて、いろいろ考えさせられる。
よく知らないけれど、シャーロット・ブロンテの父親は、結婚した当初はおそらく元気な男だったのだろう。それで、妻を次々と妊娠させて、9年間で6人の子どもを産ませた。昔の出産は現代とちがって、危険が多かったろうし、妊婦の栄養も不足しがちだったと思う。それが直接の原因かどうかはわからないけれど、妻は早死にしてしまった。
それで、妻に先立たれた父親は、意気阻喪となり、急にからだが弱くなったのではないか。上の2人の娘も死んでしまった。
それで長女がわりとなったシャーロット・ブロンテが、余計に父親思いとなって、一家を背負い、気を張って生きた。そのプレッシャーが彼女をして、世界文学の宝『ジェーン・エア』を生みださせたとも言える。

シャーロット・ブロンテは、自分のことを美しくないと考えていたという。でも、残っている彼女の写真や肖像画を見るかぎり、そんなに器量は悪くないと思う。父親と家族を背負っていたせいか、表情が少々かたい感じはするけれど。
シャーロットは、若いころからあちこちから寄せられるプロホーズをずいぶん断って生きた女性だが、40歳近くなってついに、この人ならという男性に巡り合い、結婚した。頼ることのできる伴侶を得て、ようやく穏やかな、幸せが訪れたと思った矢先に死んでしまう。
残された父親は、6人の子どもたちの誰よりも長く生きた。
人生というものについて、考えさせられることが多い。シャーロット・ブロンテは、人生と闘った人である。書いた作品も立派だけれど、その人生もなかなか味わい深く、興味が尽きない。
(2013年4月21日)



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