3/12・跳躍する聖者、ニジンスキー | papirow(ぱぴろう)のブログ

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3月12日は、中国や中東諸国のネット検閲に抗議する「世界反サイバー検閲デー」。この日は、露国の天才舞踏家、ニジンスキーの誕生日でもある。
自分がニジンスキーの名を知ったのは、学生時代、ジャン・コクトーを通じてだった。コクトーは、その評論のなかでこう書いている。
「ニジンスキーは平均以下の背丈しかなかった。精神の点でも、肉体の点でも、彼は職業的歪曲そのものであった。
モンゴル系の彼の顔は、非常に長く非常に太い頸で胴体につながっていた。彼の腿とふくらはぎの筋肉はズボンの布地をピンと張っていて、そのため彼の脚は後方に弓なりに反っているように見えた。彼の手の指は短くて、まるで付け根から切断されているかのようだった。(中略)
にもかかわらず、彼はまさしく正当に観衆の偶像だったのである。彼にあっては、あらゆるものが、遠くに、そして照明のなかで見られるように出来ていたのだ。彼の太すぎる筋肉質の体軀は、ひとたび舞台に登ると、すらりと細くなった。彼の背丈は伸び(彼のかかとは決して床につくことはなかったから)、その両手は彼のしぐさを飾る枝や葉となり、彼の顔は燦然と輝いた。
このような変貌は、それを眼のあたりに見なかった者にはおそらく想像することができないだろう」(朝吹三吉訳「存在困難」『ジャン・コクトー全集 第五巻』東京創元社)
ふだんはさえない感じだったのが、ステージに上がると、急にきらきらと輝きだす。そんなニジンスキーの踊る姿はどんなだったのかしら。見てみたかったなぁ。と、自分は、見られないまでも、せめて、と、ニジンスキー関係の本をすこしずつ読んできた。

ヴァーツラフ・ニジンスキーは、1890年、ロシア(現ウクライナ)のキエフで生まれた。両親ともにポーランド系のダンサーだった。
ヴァーツラフは、三人きょうだいのまん中で、上に兄、下に妹がいた。兄は後に精神に異常をきたし、精神病院に入った。妹は次兄と同じく、バレエダンサー兼振付師になっている。
ヴァーツラフは、10歳でサンクトペテルブルクの帝国バレエ学校に入学。入学して1年後には、彼は踊り手としての才能を認められて、学校の寄宿生となった(妹も2年遅れで同校に入学)。
彼が14歳の歳に日露戦争が勃発。
17歳で、学校を卒業したニジンスキーは、サンクトペテルブルクのマリインスキー劇場で高給をとるプロ・ダンサーとして活躍した。
このころ、ニジンスキーは、芸術プロデューサーのセルゲイ・ディアギレフと出会った。二人は愛人関係(男色関係)を結び、サンクトペテルルクを出て、パリへ向かう。そして、ディアギレフは、ニジンスキーや彼と同時にマリインスキー劇場を飛びだしてきた仲間とともに、パリで、バレエ・リュス(ロシア・バレエ団)を旗揚げした。
バレエ・リュスの公演は話題を呼び、大成功だった。
ニジンスキーは「バラの精」で喝采を浴び、「牧神の午後」「春の祭典」では賛否両論の嵐を巻き起こした。モダン・バレエがはじまった瞬間だった。
23歳のとき、ニジンスキーは、彼の「追っかけ」だった、裕福な政治家を父親にもつ、4歳年下のハンガリー女性と結婚。これによって「恋人」だったディアギレフとの仲は決裂した。
ディアギレフの一座から追いだされたニジンスキーは、自分のバレエ団を立ち上げるが、興行は首尾よく運ばなかった。
1919年、29歳のとき、ニジンスキーは精神異常の症状を示した。痴呆症状を示し、幻覚を見たりした。彼の耳には銃声が聞こえ、その目には死んでゆく兵士たちが見えるのだった。その後、病状は悪化の一途をたどり、彼は、クレペリン、フロイト、ユングといった高名な医師に診断を仰いだが、病状はよくならなかった。
32歳のときには、彼の狂気に責任を感じていたディアギレフが会いに来たが、ニジンスキーはもはや彼を識別できなかったという。妻と娘がようやくわかる様子のニジンスキーは、めったに口をきかなくなった。
第二次大戦がはじまり、ナチス・ドイツが、ユダヤ人とともに精神病患者の絶滅にとりかかったころ、ニジンスキーは、夫人のはからいで、偽名を使って、ドイツ軍の勢力下にある町の病院に入院していたが、あやうく難を逃れて生き延びていた。その後、ロシア兵が町に押し寄せて来た。病院に銃をもったロシア兵があらわれると、ニジンスキーはロシア語でこう叫んだという。
「静かにしろ」
ロシア軍部は、ニジンスキーとわかると、この天才舞踏家をていちょうにあつかった。
その後、正気に帰らぬまま、ニジンスキーは1950年4月、英国ロンドンで没した。60歳だった。

ニジンスキーの跳躍は、信じられないくらい高く、信じられないほど長いあいだ、宙に浮いていたという。
彫刻家のオーギュスト・ロダンはこう書いている。
「『バラの精』の最後の跳躍は、あたかも無限の空間へ飛びさるような感じを与える。だが『牧神の午後』におけるニジンスキーを凌ぐほどすばらしくまた賞賛すべき演技を見出すことは不可能である。跳躍もなく、むずかしい技術の見せ場もない。ただ、半ば人間の意識を持つ動物の身ぶりとしぐさがあるだけだ。彼は立ちあがり、身をかがめ、ひざまずき、うずくまり、不意に体を伸ばす。時にはゆっくりと、時にはぴくりと。(中略)肉体のあらゆる部分が、彼の心によぎる動きを表現する」(市川雅「訳者あとがき」『ニジンスキーの手記』現代思潮社)

自分は、ニジンスキーが精神異常になる寸前に書いた『ニジンスキーの手記』をずっと以前に読んで、いまも持っている。
「私は神であり人間である。私は心を持った動物である。私は肉体である。しかし私は肉体から生まれたのだ。神は肉体を作った。私は神である、私は神なのだ。神なのだ。……」(市川雅訳『ニジンスキーの手記』現代思潮社)
「私は利己主義が嫌いだ。素朴に生きたいし、みんなに幸福になってもらいたい。みんなが平等になれば、私は最高に幸福になっただろう。金をもらわないで、なにも対価をもらわないで行動し、踊ることができたら、もっと幸福になれるだろう。私は利口な人間がこわい。利口な人間がそばにいると硬直してしまう。そういう人の周囲には冷たい雰囲気がある。議論したり、根拠づけたりするために書きたくない。説明したいのだ。私は人類を救済したい」(同前)
なんだか、「炎の画家」ゴッホの手記を読んでいるような気がしてくる。
貧しい人に同情して自分の衣服を与えたために教会から追いだされ、子持ちの売春婦を援助していた、あのゴッホ。
「聖ニジンスキー」と、「聖」を付けて呼びたくなる。
(2013年3月12日)


著書
『コミュニティー 世界の共同生活体』
ドキュメント。ツイン・オークス、ガナスなど、世界各国にある共同生活体「コミュニティー」を具体的に説明、紹介。

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『1月生まれについて』
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『12月生まれについて』
ゴダール、ディズニー、ハイネなど、12月誕生の31人の人物評論。ブログの元のオリジナル原稿収録。12月生まれの取扱説明書。

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