2/15・スーザン・アンソニーの女性解放 | papirow(ぱぴろう)のブログ

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2月15日は、「それでも地球はまわっている」と言ったガリレオ・ガリレイが生まれた日だが(1564年)、米国の女性解放運動家、スーザン・アンソニーの誕生日でもある。
南北戦争のころからすでに、女性解放(ウーマンリヴ)を訴え活動していた女性である。

スーザン・ブローネル・アンソニーは、1820年、米国マサチューセッツ州で生まれた。父方の先祖は代々クェーカー教徒で、父親は綿繰機(わたくりき、実綿から種子を取り除く機械)の工場の経営者だった。
小さいころ、スーザンは父親の工場を見ていて不思議に思った。工場に、ひとりの女性工員がいて、その女性は仕事ができ、仕事全体に目が通り、ほかの誰よりも優秀なのは一目瞭然で、機械が不具合を起こしたときなど、彼女がひとりで直してしまうのだった。しかし、彼女は一工員であり、工場の監督はべつの男がやっているのである。
「お父さん、どうして、彼女を監督にしないの?」
スーザンが訪ねると、父親はこう答えた。
「女の監督は前例がないし、女だと男たちが働かないから」
スーザンは、女性の権利獲得にその生涯をかけることになる。

クェーカー教徒の人たちは、人間はみな平等と考え、黒人も白人も、男も女も分け隔てなく接するが、一歩その世界をでると、現実社会では黒人差別、女性差別が歴然としている。その落差も、スーザンに刺激を与えたかもしれない。

スーザンは教師となって代数を教えたが、同じ仕事をしても女性の給料は男性の4分の1だった。彼女は、教育現場での賃金の不平等、就業機会の不平等を訴え、そこからスタートして、組織だった方法で、女性の社会的権利を主張していった。
彼女は、権利平等協会を組織し、奴隷解放と女性参政権を訴えた。
「ザ・レボリューション」という週刊の女性誌をだし、講演旅行をして、各地の人々に女性解放運動の必要性を訴えてまわった。
朋友、エリザベス・スタントンとともに、全国女性参政権協会を設立した。
そうして、スーザンは大統領選挙があるたびに、投票しに行っては逮捕された。女性の投票は違法だったからである。

スーザン・アンソニーやスタントンらの努力により、米国憲法に修正条項が加えられた。
その第14条には、男性の市民に参政権が与えられると明記された。
第15条では、参政権は「人種」「肌の色」「身分」によって制限されない、と規定された。しかし、そこに「性」の一文字が加わることは、スーザンの生前にはかなわなかった。
合衆国全体としては、女性参政権はなかなか実現しなかった。しかし、スーザンの努力は地方で着実に実っていった。
各地でスーザンの講演を聴いた女性が、自分の権利に目覚め、地元の州で運動を起こした結果、その州議会で女性の参政権が認められる、という現象が起きたのである。
1869年、ワイオミング州での女性参政権可決を皮切りに、ユタ州、コロラド州、アイダホ州がそれにつづき、女性が参政権を獲得した。
スーザン・アンソニーは、ニューヨーク州ロチェスターで、1906年3月に亡くなった。
スタントンなど、ほかの女性解放論者たちが、結婚して子どもの面倒をみながら、解放運動に出たり、家庭に引っ込んだりしているなか、スーザンは、生涯独身を通し、女性解放運動にその全精力を傾けた、はじめての米国女性だった。(池上千寿子『アメリカ女性解放史』亜紀書房)

時代を、ざっと百年くらい先走って生きた人もいるのだ、と、ため息をつかざるを得ない。
周囲との摩擦たるや、たんへんなものだったろうと想像される。
でも、時代というのは、そういう人に引っぱられて、ようやく、よっこらしょ、と、動きはじめる、そういうものなのかもしれない。
(2013年2月15日)


著書
『12月生まれについて』

『新入社員マナー常識』

『コミュニティー 世界の共同生活体』

訳書、キャスリーン・キンケイド著
『ツイン・オークス・コミュニティー建設記』