千島アイヌをめぐる旅② 信仰を守り続けた色丹島のアイヌ | 蝦夷之風/EZO no KAZE

蝦夷之風/EZO no KAZE

武蔵の国から移り住んで以来、日増しに高まる「北海道」への思いを、かつて「蝦夷」といわれたこの地の道筋をたどりながら、つれづれに書き留めてみます。

日本のロシア正教の父・ニコライ大主教

 

「ボートから湿ったやわらかい砂の上に飛び降りて、私たちを待っているグリゴ―リのいる岸辺に向かった。彼は53歳になる千島人で、かなり上手にロシア語を話した。口ひげを短く刈り込んだ顎鬚、襟の端がダブついた長い白いルバシカ、それにその独特な発音。すべてはウクライナ人そのものだった。めずらしい男だ! 『ごきげんよう、よく来て下さった。あなた方にお目にかかれないかと思いましたよ』と彼は言った。先に会堂に寄り、辺りが暗くなるまで彼らの小屋を訪ねて回った。会堂内はたいへん立派だった。もちろん豪華ではないが、できる限り清らかに建てられ、飾られていた。私たち宣教団が送ったイコーナ(*聖像)、司祭のための祭服、聖器物、十字架、福音書もあり、屋根の上には鐘も吊ってあった」(掌院セルギイ『北海道巡回記』より)

 

1898(明治31)年8月13日朝8時、ロシア正教会のニコライ主教は、後にモスクワ府主教となるセルギイ師を伴い、かねて切望していた色丹島巡回を行った。そこには千島樺太交換条約でこの島に強制移住(1884/明治17年に実施)させられた千島アイヌ63人がいた。長らく正教会の司教から祝福を受けていなかったこともあり、幌筵(パラムシル)に猟に出ていたヤコフ首長以下17人を除く島民がこぞって、島の中央に建つ斜古丹聖三者教会でニコライ主教らを迎えたのだ。ちなみに、彼らを出迎えた”グリゴーリ”は、翌年、色丹島を訪れた鳥居龍蔵の案内役となった”グレゴリー”と同一人物と思われる。

 

ニコライ主教は日本語しか話せない島民がいたため、日本語で「見えざる神、しかし常に私たちを見給う天の父への絶えざる祈り」について説教をした。そして「労働するように、土地を耕すように。それこそ主の戒めであり、働く者のみが主を喜ばせることができる」と説いた。これは、農作業を忌避し、自然が用意したものだけを採取する千島アイヌの「怠惰な習慣」への注意喚起でもあった。

 

「主教は全員に小さな十字架とイコーナを配り、皆を祝福した。また首長らには根室で求めたお茶やタバコを、婦人には布地や糸を渡した。帰りが急がれたので、皆に祝福を与えながら何度も彼らに十字を切り、暗闇の中をボートに戻った」(同上)

その後、ニコライ主教は択捉島に渡り、根室に帰着後は和田屯田兵村、さらに標津まで足を延ばして道東巡回を終えた。こうしてロシア人の千島進出以来、列島伝いに浸透していたロシア正教の歴史の輪がつながったのである。

 

千島列島から伝わった「北」のキリスト教

 

16世紀に始まったロシアの東方遠征は、中国・清帝国最大の版図を築いた康熙帝に行く手を阻まれたため、延々とシベリアを横切って遠くオホーツクへ向かわざるを得なかった。そして太平洋に達すると針路は2つに分かれた。1つはベーリング探検隊によるアリューシャン列島、アラスカ、さらにカリフォルニア北部に達する北米ルートで、太平洋の北洋海域でラッコやオットセイなどの毛皮を大量に手に入れる。そしてもう1つが、カムチャッカ半島から千島列島伝いに北海道へと南下する道だった。

 

コサック兵を率いた遠征隊のアトラソフがカムチャッカ半島に進出したのは17世紀末。しかし、当時のカムチャッカは、先住民イテルメン(カムチャダールとも言う)と千島アイヌらが混血・雑居していた地域で、アトラソフはアメリカ・インディアン討伐さながらの戦闘を行って、ようやく同地を制圧する。この時、先住民の捕虜になっていた日本人漂流民「デンベイ」が見つかり、彼はペテルスブルグまで送られ、ピョートル大帝に謁見。彼の話を聞いた大帝は日本との通商の可能性を探るよう指示している(デンベイはその後ロシアで亡くなるが、洗礼を受けて、日本人初のロシア正教徒となった)。

 

千島列島にロシア人が足を踏み入れたのは、1711年に起きたコサック兵の反乱がきっかけだった。首謀者であるアンツィフョーロフとコズイレフスキーは捕縛されるものの、反乱の罪の代償として小舟に乗って命がけで危険な海峡に突入し、千島第一の島・占守(シュムシュ)島にロシア国旗を掲げる。翌々年には隣の幌筵(パラムシル)島にも上陸を果たすが、たまたま択捉(エトロフ)島から交易に来ていたシャノタイというアイヌから「マツマエに至る14の島が存在する」ことを知る。

 

さらに1739年にはベーリング探検隊の一員だったシュパンベルグが得撫(ウルップ)島沿岸までを調査したが、「探検隊から話を聞いたクラシェニンニコフは、クリール人(千島アイヌ)のうち日本人に服属しているのはマツマイ島(北海道)のクリール人(アイヌ)だけで、ウルップ島以北のクリール人はロシア人の支配下にあり、ウルップ、エトロフ、クナシリの島民たちはいかなる支配にも属していないことを自著『カムチャッカ誌』で発表する」(秋月俊幸『千島列島をめぐる日本とロシア』より)。この本が発刊された1755年当時は、「千島列島に日本の主権が及んでいない」ことはロシア人の共通認識だった。

 

やがて千島列島がアリューシャン列島と同様、その周辺海域に豊富な毛皮資源を持つことに気が付くと、ロシア人はアイヌたちに毛皮税(ヤサーク)の貢納を命じる。当初は1年間に成人男子1人がラッコ皮1枚を納める程度だったが、それでも取り立てを嫌って南に逃れるアイヌたちが相次ぐと、彼らを追ってロシア人もラッコ島の異名のある得撫島に至り、ここに拠点を築く。しかし、収税人による強引な取り立てや虐待が始まると、これに怒ったアイヌたちは、1770年に反乱を起こし、得撫島にいたロシア人59人のうち21人を殺害する事件に発展する。まさにこの20年後に日本で起こった「クナシリ・メナシの戦い」そのままである。

 

千島統治の安定化を図るためには、先住民である千島アイヌの馴化が不可欠との認識から、ロシア語教育と同時にロシア正教の伝道が進められた。すでに1747年には、カムチャッカにいた掌院ホコウンチェウスキー師が修道司祭イオアサフ(後にアラスカ初代主教)を派遣し、占守島・幌筵島のアイヌ253人のうち、56人に洗礼を行っており、「1800年には(*他島も含めて)千島アイヌの信者数は男77人、女87人の計164人を数えた」(鳥居龍蔵『千島アイヌ』)。

 

「得撫島事件」で一時、ロシア人はここから撤退するが、これを機に非道な収税人による取り立てに代わり、毛皮商人による組織的な交易事業に切り替わっていく。中でも北米方面の毛皮交易を担っていたロシア版の東インド会社「露米会社」が千島経営にも乗り出すと、同社は千島アイヌの同化政策=ロシア化を推し進めていく。1830年代にオホーツク地域を管轄していたロシア正教会のインノケンティ司祭(後に大主教に就任)が何度も千島を訪れているのもこの施策の一環であろう。後にニコライ主教は日本に向かう途中で彼に面会し、多くの示唆を受けたことを明かしている。

 

その後、択捉島を防衛ラインとした日本とロシアの接触によって、多くの事件や交渉事が発生するが、ここではあえて触れず、章を改めて取り上げることとする。

 

ラッコの毛皮は人の背丈ほどもある。手に持っているのはオオワシの羽

 

ニコライを支えた箱館戦争の生き残り

 

1861(文久元)年7月14日、ニコライ師(当時は24歳で、まだ修道司祭)はロシア軍艦アムール号で箱館(”函館”に改称するのは明治2年9月)に到着する。米国に続き、江戸幕府と通商条約を結んだロシアは1858年に箱館に領事館を開設。領事館付き主任司祭としてマアホフ長司祭が赴任していたが、健康悪化で帰国したのと入れ替わりにニコライ師がやって来たのだ。ゴロヴーニンの『日本幽囚記』に触発されて日本行きを決意したニコライ師だったが、着任当時は外国人以外へのキリスト教布教はご法度。そのため、以後7年に渡り、古事記や日本書紀に始まり、日本人の宗教観を知るための日本研究に没頭する。

 

その成果は、明治政府樹立の翌年に一時帰国した際、ロシア人向けに行った講演で明らかにされる。「日本国民はきわめて賢く、成熟しており、しかも新鮮な活力を持っている。それに対して日本の諸宗教はあまりに遅れているか愚劣であって、国民を納得させることができていない」(『ニコライの見た幕末日本』より)と語り、仏教や儒教の問題点を詳しく説明しながら、幕末期日本の激動の中で、日本が新しい「神」を求めるべき時期にあることを力説している。この直後、ニコライ師(司祭から掌院に昇叙)は「日本伝道会社」の設立を許され、宣教団団長に任命される。(彼の帰国を聞いたドストエフスキーが面談に訪れたのは有名な話)。

 

維新前後のこの時期に、ニコライ師との関わりで注目すべき2人の日本人がいる。1人は米国への密航を企て、箱館に潜伏していた新島襄で、彼はニコライ師に日本語を教える代わりに、英語を学んでいる。そしてもう1人はニコライ師の右腕となってロシア正教の伝道に大きな力を果たした沢邉琢磨だ。彼は土佐出身の士族で、武市半平太の従兄弟であり、また坂本龍馬は彼の父の従兄弟に当たる。土佐を脱藩した沢邉は函館に逃れ、神社の宮司の跡取りとなっていた。尊王攘夷派の沢邉は、函館の異人の中でもひときわ目を引くニコライ師を誅殺しようと近づくが、逆に彼の魅力に感化され、ご禁制を破ってキリスト教徒の道を選ぶ。

 

1873(明治6)年にキリスト教御禁制の高札が撤去されると、ようやく日本人への布教が「黙認」され、カトリックやプロテスタントが本格的な伝道を開始するが、彼らに劣らず多くの信者を獲得したのが、もう一つのキリスト教である「ハリストス正教会」(ロシア語でイエスは“ハリストス”と表記されるため、日本のロシア正教会は『日本ハリストス正教会』が正式名称)だった。

 

1898(明治31)年の内務省調査では、日本のキリスト教会及び信徒数は以下の通り。

1,カトリック教会          208か所              53,924人

2,ハリストス正教会       170か所              25,231人

3,組合教会                    70か所               13,627人

4,日本基督教会              67か所               12,441人

5,聖公会                       95か所                 8,237人

6,メソジスト教会           78か所                 5,177人

 *『正教新報』482号(1901年1月)

 

カトリック教会の信徒の半数以上は、長崎などにいた”潜伏キリシタン”からの「復活組」であることからすると、明治以降の信徒数の伸びに限れば、ハリストス正教会の予想外の急進に驚かざるを得ない。日本ハリストス正教会が多くの信者を獲得できた要因は主に2つある。

①    箱館戦争に加担した反政府系の士族、中でも旧仙台藩士らが箱館に残っており、反政府感情から醸成された改革思想がキリスト教の受容を促したこと。箱館はロシア正教の揺籃の地であり、沢邉の同志であった旧仙台藩の酒井篤礼らが、仙台経由で東北一帯でのハリストス正教会の勢力拡張に尽力した(千葉茂『受容と信仰/仙台藩士のハリストス正教と自由民権』参照)

②    ハリストス正教会の伝道方式は、他の宗派より積極的に日本人伝教者を登用してきたことが特徴で、そのために地方の小都市や農村部などをくまなく回り、活発な活動を展開できた

 

特に後者について補足すれば、1877(明治10)年の在日外国人キリスト教宣教師が、カトリック45人、プロテスタント各派合計99人に対し、ハリストス正教会はわずか4、5人、時にはニコライ師1人ということさえあった。「日本では日本人によって伝道を行うべし」というニコライ師の考えもあったろうが、日本人伝教者が地方の名士や農民たちを取り込んでいったことは、その後、東北の自由民権運動への道筋にも繋がった。

 

北千島防衛のためアイヌの改宗を図ったが・・・

 

広大な北海道での布教活動は、日本人伝教者の並々ならぬ使命感と強靭な体力なしでは成し得なかった。その様子は、道東地域での布教活動を記録した『釧路正教会百年の歩み』に事細かく記されている。1882(明治15)年に司祭に選出されたティト小松韜蔵師は、任地は函館ながら道南以外にも札幌・小樽などの道央から寿都などの西部海岸、さらに秋田県下の大館や雄勝までを担当し、「しばしば津軽海峡を渡り、東奔西走、その労苦もとより筆紙の尽くす処にあらざりき」と称えられた

 

その小松司祭が1884(明治17)年に根室を訪れたのは、ニコライ師に司祭の派遣を請願していた千島アイヌが色丹島に強制移住させられたことに起因する。当初、色丹島への便船は無かったが、根室を拠点に据えた後に、色丹島を訪れては斜古丹聖三者教会を訪れて千島アイヌの熱心な信仰に応えている。

 

三県時代に根室支庁が設置されると根室の人口が急増(明治6年・人口250人→明治18年・4238人)したため、1886(明治19)年に根室正教会を創設して道東地区での本格的な伝道を開始する。ところが同じ年にカーペンター夫妻がバプテスト教会を、また聖公会も宣教を始め、根室市内と郊外の和田屯田兵村で布教を競うようになる。

 

ライバルはキリスト教他宗派だけではなかった。ニコライ主教巡行の翌年(1899)には、東本願寺の僧侶・奥村円心師が千島アイヌの改宗を狙って色丹島に移住してくる。実はこれは北千島防衛を期して「報效義会」を組織した予備役海軍大尉・郡司成忠の依頼によるものだった。

 

千島アイヌの強制移住後、彼らが元々活動していた北千島周辺は「無人」状態となった。ロシアは1860年の北京条約(アロー号事件後の講和会議)で手に入れたウラジオストクを東方の拠点にしたため、もう千島には関心がなかった(1856年に終結したクリミア戦争後は露米会社は衰退)。その間隙を縫って、英米の密漁船が我が物顔でこの海域で操業し始め、これを見かねた郡司らが北千島への移住を計画。同時に色丹島での生活になじめず、元の居住地に戻りたがっていた千島アイヌを幌筵島に連れ戻す代わりに、ロシア正教からの改宗を図ったのだ。

 

しかし、東本願寺の改宗政策は稚拙だった。「アイヌは官庁の保護から離れて自活することは困難なので、彼らの生計を我々が監督する」といいつつ、奥村師が行ったのは酒好きのアイヌに酒やタバコを振舞って歓心を買うことだった。また孤島に暮らしているために、古来からなじんだロシア正教に親しむのは、「文明の実態」を知らないからだと、酋長代理のアウエリアンら2人を東京・京都に連れて行き、見聞を広めさせようとした。結果は奥村師の思惑は外れ、彼らは東京のニコライ堂を訪ね、旧知のニコライ主教に面会し、むしろ信仰を深めて帰ってきた。在島2年で奥村師が島を離れたのは当然だった。千島アイヌの改宗騒ぎは、今となってはお笑い種に過ぎない。(麓慎一『北千島アイヌの改宗政策について』参照)

 

残されたのは小さなキリスト像

色丹から引き揚げたアイヌの一部の人たちは、

中標津郊外にある上武佐教会に移り住んだ

 

「それにしても、新聞各紙のロシアに対する罵倒のすさまじいこと。今日の『ジャパン・デイリー・メイル』では、丸々大桶いっぱいのものすごく汚い、すさまじい臭いの汚水がロシアめがけてぶちまけられている。ロシアは”実に野蛮で実に卑劣な国であるから、地球の表面から拭き取って消してしまっても、まだ仕打ちが足りないくらいだ”というのだ。我々に対する憎悪はすさまじい。世界のあらゆる民が憎んでいるかのようだ。イタリアはといえば、これも日本人がロシアの艦隊を撃破したといって喜んでさえいる。いったい我々がイタリアにどんな悪いことをしたというのだ。イギリス人ときたら、歓喜のあまり我を忘れている」(1904年2月12日のニコライ師の日記)

 

明治以降の日本人が受け入れた「ロシア」が3つあると、中村健之介(『宣教師ニコライと明治日本』の著者)は指摘する。ひとつはトルストイやドストエフスキーなど、19世紀の小説を中心とするロシア文学。次いでソヴィエト・ロシアによって担われた社会主義思想。そして幕末期にニコライ師によってもたらされたロシア正教だと。ただし前2者に比べ、ロシア正教の日本における歴史はあまり知られていない。我が北の地にはその痕跡が多く残っていることも。

 

「日本ハリストス正教会」の歴史は苦難の連続だった。上で紹介したのは、日露戦争中の戦果に沸く日本や世界各国の世論に対するニコライ主教の悲憤に満ちた日記の一文だが、この戦争は日本ハリストス正教会に大きな禍根を残した最初だった。

 

日露戦争の戦端が切られた1904(明治37)年2月には「函館露探事件」が起きる。露探とは「ロシアのスパイ」のことで、スパイ容疑を掛けられた17人が函館憲兵隊に検挙され、函館市外三里以遠に追放された。スパイとされたのは地元有力紙の函館新聞の主筆・斉藤哲郎のほか、商社員・ロシア語通訳のほか、ロシア正教会の司祭も対象となった。当時の函館のロシア正教会の信徒は383人だったが、後難を恐れて教会に出入りするものはほとんどいなくなってしまう。

 

さらにロシア革命が起きると、モスクワ本部からの援助は打ち切られ、しばらく布教活動は停滞を余儀なくされる。そして決定的だったのが、第二次大戦終幕のソビエト軍による千島侵攻だった。占守島・幌筵島にいた約2万5千人の日本軍が攻勢をしのいでいた渦中で、日本ハリストス正教会の責任者であったセルギイ師は獄舎に繋がれ、苛烈な拷問の末に終戦直前に逝去する。もちろん敵国ソビエト・ロシアの宗教など「くそくらえ」となり、戦後しばらくは事実上の解体状態にあった。

右手がちぎれたキリスト像は北方領土遺産

 

色丹島にいた千島アイヌたちは逃げるように北海道に引き揚げて来たが、そのうち何人かは何度も色丹島まで訪れてくれた日本人伝教者のいた中標津郊外の上武佐教会の近くに移った。同教会には日本人最初のイコン画家・山下りんが描いた15枚のイコンが残されている。以前、これらの聖像を見に伺ったことがあるが、この教会にはもうひとつ見るべきものが残っていた。祭壇中央の柱に架かっている右手がちぎられた10㎝ほどの小さなキリスト像だ。これは引き揚げ間際に千島アイヌの信者が慌てて持ち帰った時の痕跡である。この像は彼らの信仰の証であり、いまはその末裔を追うことも難しい現在、唯一、彼らの苦難の歴史を物語るものである。(このキリスト像は「北方領土遺産」に指定されている)