【他者】を受け入れること、理解すること | フランス暮らし情報と生活事情

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海外在住。
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それと色んな闇のこととか、愚痴とか・・・暗い部分をも書いています。

ブログは私の【毒吐き】の場だ。

 

以前書いた三浦春馬君関連の記事も、私にとっては自分の中のモヤモヤを吐き出す1つの方法だった。

 

画面越しに吐き出すことは、画面越しの事で、それだからこそ、できたことかもしれない。

通常、PCの前に向かって「書く」「読む」ことばかりの生活で、あまり他者とのコミュニケーションも取らない生活を送っていたが、この夏に晴れてそんな生活も終了したところだ。

 

そんな中、起こった春馬君の死。色々考えて、まとめて、そして、ある日ブログ記事として書いた。

 

 

もちろん、自分の中で出した答えを公にすべきか否か、迷いもした。

けれど、ポジテイブなコメントも頂いていたので、そのまま継続していた。

(感想を私なりのポジテイブ、ネガティブというカテゴリーで書かせて頂く。)

 

万人に受け入れられると言う事は難しいことだ。

日本は差別が少ないような印象もあるが、逆に見えない差別もあるという印象も受けた。

それは、自分の体験からだ。

 

●人種差別

●LGBT

●障がい者

 

など。

 

多少個人的な話も交えるが、私は認定はされていない、「障がい者」だ。

認定されない、というのは、私は片目が見えない。今はその生活にも慣れ、一瞬見ただけでは日常生活にも支障がない。けれど、一時白杖をついて生きていた時期がある。

けれど、片目の場合は、もう片目が見えるので、「障がい者」としての認定はされない。

 

眼科にも言われているが、「この先いつか残っている目も同じようになる。」

と言われた。けれどそれがいつどんな状況で起こるか分からない。もちろん、今までも残った目も失明ギリギリのところに会ったことも何度かある。

※なぜそうなるかというと、血管が切れて、視野がなくなって行くのだ。

 

だから、今できること、をするようにしている。

視力に問題がある、という時に白杖を持っていても人それぞれに視力には違いがあり

 

●全くなにも見えない

●光を感じることはできる

●色も識別できる

●ぼやっとだが全て見えている (矯正視力0.01以下=眼鏡などでも矯正ができない。)

 

など、人それぞれだ。

 

さて・・・。

視覚障がい者であれば、白杖をついている。

それは本人の為でもあるが、周りに自分が視力に問題があると伝える一つの手段でもある。

 

私は片目だったが、片目の場合は距離感や遠近感も失う。ただし、人間は強い。そんな生活を続けていると、次第に慣れてくるし、またある程度普通に生活ができるようになる。それでもそれまでには数カ月、数年かかることもある。これが、障害の種類にもよるが、リハビリで色んなことができるようになるもの、努力しても

そんな私が体験した、白杖を持った東京での生活は本当に大変だった。

 

●白杖を持って歩いていても、ゆっくり歩いていると急いでいる人たちには舌打ちをされたりすることもある。

 

●白杖を持っている=視力に問題がある。のだが、あるお店で「XXいくらですか?」と聞いたら「そこに書いてあります。」とレジの奥の料金表を指さされた。

 

●飲食店に行き、おしぼりを出されたが、遠近感がないため、ちょっと遠目のおしぼりをすぐに取れなかったら

「それ、面白いですね。」と言われた。見えていないと言う事を全くしていなかった。

 

もちろん、白杖を持っていても、視力が弱い、見えないということを認識しない方もいる。

 

同じような話で、ある舞台で前列にいるお客がずっと下を向いていた。そこで演者はその人の前で飛び跳ねてみたり、注目を引こうと色々試したそうだ。けれどその観客はずっと下を向いたまま…。

そしてアンコールの時に初めて上を見上げて、そこで演者の方が初めて気が付いたそうだ。その観客は視覚障がい者で下を向いて、注意深く耳を傾けてその演劇を楽しんでいたのだ。

 

また、大盛り上がりのコンサートで、観客が総立ちしているところに座ったままの観客がいた。

それを演者が指摘したが、実はその方は障がい者で座っていることしかできなかった…。というような話も聞いたことがある。

 

他人のことなんて、パッと見ただけでは理解できない。

私がこうして記事を書く状況がどんな状況かなんて誰にも分からない。

 

白杖を持ってでも、相手がそこにいて、普通に座っていれば、相手のおかれた状況などは分からないものだ。

けれど、そんな状況でのこんな軽い一言がすごく傷つくこともある。

ただでさえ、片目を失明したことで、心が沈んでいる中、頑張って生きていこうと思いながらも、こうした小さな何気ない一言にも傷つくことがある。

 

兎に角、とても生きづらい想いをした経験がある。

 

本当に一時はもちろん読み書きなんて、全くできなくなっていたし、今は大きなPCの前で、画面を200%にして、光の具合などを変えて、視覚障がい者でもPCが使いやすいように設定して使っている。

 

 

また、PC作業が全くできない頃に、ある方に

「英語もフランス語もできるんだから、色々仕事があるでしょう。」

 

と言われた時に

「でも読み書きができないので…」

 

と答えると、そこに一緒にいたご婦人が

「うちの娘は英語ができて、もちろん読み書きもできるから外資系に務めているんだけどね…。」

と話始めたことがある。

 

できない・・・には色々な意味があるが、聞いた言葉をそのまま鵜呑みにして、話すと、とんでもない事になることがある。普通の人と比べて今でもできないことはたくさんある。けれどある程度普通の生活自体にはあまり問題なく過ごせている。

 

他者と少しでも違う時、意外と周囲は

「自分は理解力がある」

と思っても、意外とそうでもないことがある。

理解力というよりは「他者は自分と違う」という受け入れ力が必要なんだと思う。

 

障がい者に関しては色々周囲からのサポートも必要なことがある。

けれどそれ以外の場合は、また異なることもある。

 

例えばLGBTなどに関しても、

「私は理解力がある。」と思っても

 

「彼はゲイだ」と言ってしまうだけで、私はそこに差別を感じてしまうのだ。それが当たり前のことであれば、わざわざ言う必要もないと思ってしまうからだ。

それは、ある男性が女性を好きだと言う時、女性が男性を好きだと言う時にはわざわざそれを言わないからだ。「彼はXXだ。」「彼女はXXだ」と言ってしまうことで、既にその人をカテゴリー化してしまっている気もするのだ。だから、今回自分が書いていた記事で、私自身が「彼はXXだ。」と言う事は一切言っていないのに、コメントなどでそう書かれるだけで私は心が痛んだ。私はそんなことを一切言っていない。

 

もちろん、カテゴリー化というのは相手がどういう人か、と言う事を考えるにあたって、一つの要素にはなる。

けれど、それによって、相手を一人の個人ではなく、そのカテゴリーにあてはめてしまう事もないだろうか。

 

相手の事をしらず画面越しに受けることはそれぞれ異なることもある。

自分が受け入れられない内容や事柄もあるだろう。

自分と異なる相手を受け入れられない人もいるだろう。

 

けれど、なぜそこにネガテイブな言葉を掛ける必要があるのだろうか。

わざわざ公に「いやだ。」「嫌いだ。」と言う必要があるのだろう。

自分とは合わないなら、そのままスルーすればいいのではないか、と思うのだ。見なけれ良い、と思ってしまうのだ。

 

他者と違うと言う事を受け入れること、というか、自分だけがマジョリテイーで、マイノリティーを受け入れる、受け止めることが大事だと思う。

マジョリテイーが偉いわけでも優越なわけでもない。それが一般化しているが、それが100%ではない。

 

そういう根本的な意識から変えていかないといけないと思う。