年始に小学校時代の友人が開いた同窓会に参加をした。
古代が仲が良い連中(といっても3人)は全国津々浦々に散ってしまい、地元残留組とはまったく交流がなかったのですが、ひょんな縁で参加することになったのであります。
懐かしい顔ぶれ8人で居酒屋の掘りごたつに入り、それぞれの近況を報告しあったのですが、これがなかなかどうして楽しく沢山の発見があった。

なぜかというと、彼らから小学生時代の古代が如何に飛び抜けたバカだったか思い出させていただいたからだ。
当時打ち込んでいたスポーツの練習の疲れで授業中寝ているわ(恐らく因果関係ないが一応)、授業中にクラスの同級生をキャラクターにしてマンガを描いているわ、さらにそのマンガを一部50円ほどで同級生に売るわ(人気あったらしい)で、問題児というかなんとも形容し難いキャラクターだったのは想像に難しくない。
なるほど、彼らが今の若干理屈っぽい古代を理解し難いのは当然である(とても自由なキャラだったみたいですので)。

といっても古代は今も昔も変わらない気持ち(要するに形容し難いキャラ)なのであるが、冷静に客観視すると随分と変わってしまったのかもしれない。あれだけ学問に興味がなく(一ミリも)、スポーツに没頭していた古代がなぜ今アカデミックな世界で努力をしているのかは自分でもうまく説明できない。そもそも古代は初め、スポーツでキャリアを燃焼した後は、体育教師になりたかったのだ。それが、いつの間にか外資系メーカーへと就職先が切り替わり、営業職からマーケティング部門に能動的態度の結果異動し、さらなる知的好奇心にいざなわれ現在は研究までしている。
すべては偶発にともなうもので計画的に今の自分になったわけではない。ただ、常に自分の信じることに情熱を注いできたし、とにかく必死に生きてきたことだけは確かだ。(と、なんだかこの若さでキャリアを語るのは生意気だし、まったく振り返っている場合ではないが、小学生の自分から今の自分を見たら結構な月日が流れているのである、許してほしい)

古代が歩んできた道はスタンフォード大学のJ.クランボルツ教授が提唱するプランドハプンスタンス理論(計画された偶発性理論)で説明できる。

簡単に要約すると、キャリアは偶然の出来事、予期せぬ出来事に対し、最善を尽くし対応することを積み重ねることで形成されるというものである。

これだけ変化が激しいのだ、先が読めないのだ、目標を決めて逆算するキャリアは限界である。
それよりも、日々自分のビジョンに向けて情熱を燃やし、必死に生き抜き、その先に何が見えるのだろうか、というマインドが重要ではないか。

何か固定された目標の為に努力をするというよりも、必死に生き抜き、学び、頑張った先に何が見えるか、といった価値の変換が重要であると思う。
そして、走り抜けた先に見えた機会を全力で取りにいく、この連鎖が生き様でありキャリアであるのではないか。それを可能にするエネルギーが個々人のビジョンであると思う、そう思うのであります。