本日、とある表現教育を専門にする先生の授業で“自分自身への自己紹介”をなぜか受講者全員の前で発表をする羽目….というか機会をいただいた。もちろん、自分だけがしたわけではない。先生に選ばれた、全受講者中の約2割が5分ほどの時間で“自分自身への自己紹介”を舞台に立って他者に行ったのだ。
他者に対する自己紹介ではなく、自分にだけできる自己紹介。他者には言えない本当の自分を自分だけに正直に自己紹介しよう、というお題の宿題をいただき、それぞれが先日提出していた。言うまでもなく、人によっては超極秘資料である。永久お蔵入りさせたい人もいただろう。しかし、数十人はその超極秘資料を全員の前で公開する機会を与えられた。もちろん、学生に拒否権はある。しかし、この“場”の凄いところは誰一人、本当に一人も発表から逃げなかった。全員発表である。
発表が始まる前、「きっと、人の前に晒してもセーフな、無難な方々が選ばれたのだろう。自分はかなり赤裸々に書いてしまった。なんてこった。」と安易な考えを持っていたが、発表が始まると自分の予想が愚かなまでに外れていたことに気がつく。皆、自分自身というものを何のフィルターも通さず、時には涙ぐみながら、ときには声を詰まらせながら、苦しみながら、本当の自分を紹介していたのである。
中には耳を塞ぎたくなるような、「もう、そんなこと言わなくてもいいから」と聞いているほうが苦しくなる内容もあった。あの場では、人間の本性は悪とされる性悪説が支持されるようなドロドロした内容も多々あった。しかし、そこまで苦しみながらも自分を表現できる皆は本当に強い人間だなと心から思った。古代が発表した内容なんて、まだまだ赤裸裸でも何でもなかった。
最後は胸が一杯になり、歩くのがフラフラになった。今も何か頭がぼーっとしている。こんな経験は初めてだ。皆、色々なものを背負って生きているのだと。「ただ愚直に、正直に生きているのだ」という人間などいないのではないか、という仮説を持つぐらい衝撃的だった。
最後に一つ、あの場ではお互いの信頼関係をベースとしてあのようなことができた。しかし、現実社会では、本当のことを言い、正直でピュアであればあるほど生きていくのが辛い、苦しい世界なのかもしれない。いや、そうだろう。このような社会で信頼できる、自分の真実を打ち明けられる世界がどれだけあるか、どれだけ広いか、によって幸福度は如何様にも変わってくると思う。ということは生きて行く上で一番大切なのは「信頼」なのかもしれない。
他者に対する自己紹介ではなく、自分にだけできる自己紹介。他者には言えない本当の自分を自分だけに正直に自己紹介しよう、というお題の宿題をいただき、それぞれが先日提出していた。言うまでもなく、人によっては超極秘資料である。永久お蔵入りさせたい人もいただろう。しかし、数十人はその超極秘資料を全員の前で公開する機会を与えられた。もちろん、学生に拒否権はある。しかし、この“場”の凄いところは誰一人、本当に一人も発表から逃げなかった。全員発表である。
発表が始まる前、「きっと、人の前に晒してもセーフな、無難な方々が選ばれたのだろう。自分はかなり赤裸々に書いてしまった。なんてこった。」と安易な考えを持っていたが、発表が始まると自分の予想が愚かなまでに外れていたことに気がつく。皆、自分自身というものを何のフィルターも通さず、時には涙ぐみながら、ときには声を詰まらせながら、苦しみながら、本当の自分を紹介していたのである。
中には耳を塞ぎたくなるような、「もう、そんなこと言わなくてもいいから」と聞いているほうが苦しくなる内容もあった。あの場では、人間の本性は悪とされる性悪説が支持されるようなドロドロした内容も多々あった。しかし、そこまで苦しみながらも自分を表現できる皆は本当に強い人間だなと心から思った。古代が発表した内容なんて、まだまだ赤裸裸でも何でもなかった。
最後は胸が一杯になり、歩くのがフラフラになった。今も何か頭がぼーっとしている。こんな経験は初めてだ。皆、色々なものを背負って生きているのだと。「ただ愚直に、正直に生きているのだ」という人間などいないのではないか、という仮説を持つぐらい衝撃的だった。
最後に一つ、あの場ではお互いの信頼関係をベースとしてあのようなことができた。しかし、現実社会では、本当のことを言い、正直でピュアであればあるほど生きていくのが辛い、苦しい世界なのかもしれない。いや、そうだろう。このような社会で信頼できる、自分の真実を打ち明けられる世界がどれだけあるか、どれだけ広いか、によって幸福度は如何様にも変わってくると思う。ということは生きて行く上で一番大切なのは「信頼」なのかもしれない。