忘年会ライブと映画の感動。
ライブ後打ち上げの庄八(私と東京から参戦の村上酔軍メンバーは同席を遠慮しました)を出てホテルへ向かう樋口さんとゆきさんの後ろ姿が翌日に観た「いまダンスをするのは誰だ」の樋口さんとオーバーラップしていまだに私の記憶の中で同化しています。
2日間の感動は、今年もやるよ、のマーサからのオファーに始まり、ライブの告知と映画公開に向け1枚のフライヤーをシネマ5に届け、合同新聞の高橋さんに記事をお願いするも映画公開が決まったほうが紹介もし易いですよね、を受け再度シネマ5の田井さんを直撃。
年内は厳しいかな?のお答えにガックリしながらも公開にはこぎつけそうでホッとしてました。
すると数日も経たない内にシネマ5の大西さんから上映決定の連絡が。
しかもライブ翌日の16日から!
マーサからは監督と奥様役の小島のぞみさんがライブにお見えになることを聞いていましたので、そりゃ舞台挨拶でしょと。
しかし、如何せんこちらは映画のプロモーションはど素人。
余計なことをして引っ掻き回さないように田井さんを通じてお願いをしました。
合同新聞では大江さんに担当していただき素晴しい記事に。
ライブも大勢のお客様に参加していただき、Utaさん、梅香家さん、平松まゆきさんと大分にいて下さってありがとうと言いたい御三方に心を震わされ、さらにメインの樋口さんと村上ゆきさんの息のあった安定のライブに、もう何度も感動してきているのに今回もまた射抜かれてしまいました。
協賛をいただいた三和酒類さん、サイクルショップコダマさん、ふぐ良さん、平倉建設(ブリックは平倉建設の企業メセナの一環として運営されてます)、戸次の安東さん、本当に有難うございました。
CS1の大塚君も宇佐まで行っていただき当日のお手伝いもありがとう。
また大分樋口班の皆様も有難うございました。
大感動の一夜でした。
そして翌日は映画初日。
上映まで時間を残している段階で半分まで席が埋まってない状況。
まぁやれることはやったからとスクリーンに向かっていましたら上映間近となったところでほぼ満席に。
そして館内が暗くなり予告やらが映り始めたら補助席までが設置されるではありませんか🙀
それだけでも胸がいっぱいになったのに映画がまた素晴しいのですよ。
映画終了時、そこにはやっぱり涙を拭うマーサの姿がありました。
私も映画の感動とまた別の思いも含めてちょいと涙が。
I haveは映画の主題でもありました。
もう一度映画を観に行こうと思います。
I have ?な今の自分自身に喝を入れる為にも。

昭和60年8月12日、私は修行先レストランの一週間夏休みに合わせて福岡経由で大分へ帰省した。

それは学生時代また脱サラ後の東京暮らしに於いても途中経由して福岡に住む同級生と飲み明かすというのが欠かせぬ恒例行事だったからだ。

ただその頃ヤツは新婚だったし、私はと言えば東京〜大分で遠距離ナンチャラのカミさんを両親に紹介する予定があったものだから、その日はそのまま電車に乗って大分へ戻ったかも知れない。

今度トキハのカフェ音らくに行ってヤツと記憶をすり合わせてみよう。

問題はそこからなのだが、実家で日航機事故の衝撃の一報を知らされた。

その時、あの羽田の混雑と九ちゃんが・・・という悲しみ、そして、もしかすると飛行機事故は我が身にも起こったかも知れないという万分の一の可能性がないまぜとなって頭を巡った。

多くの方々が犠牲になられたこの事故は今だに毎年語り継がれ当時を知る人々の心に哀悼の念を呼び起こす。

と、近年までは話はここまでだったのだ。

だが、ウィキでこの事故の詳細を調べていて衝撃の事実を知った。

それはあの日のJAL123便伊丹行きJA8119機はその前にJAL503,504便として羽田-千歳線を往復し、363,366便として羽田-福岡往復をし、また123便として伊丹に向かっていたのだ。

JAL363便。

羽田→福岡。

まさに当日の私の行程。

私が利用した便が363便であったのかはわからないけれど昼のうちに福岡に着いたことは確か。

まさかね、そんな偶然が私の身に起こるはずはないだろうからきっと便が違う筈。

とは言え事故調によると8119機はそれ以前にしりもち事故を起こしていてボーイングの不適切修理による圧力隔壁の破損があった模様なのだ。

つまりは御巣鷹山にいたるまでに事故が起こっても不思議はなかったということ。

JAL363便が福岡にたどり着いた奇跡。

その後の悲劇。

改めて犠牲になられた方々へのご冥福をお祈りするとともに我が身が生かされていることへの感謝の思いを噛みしめる一日としよう。