- 前ページ
- 次ページ
昭和60年8月12日、私は修行先レストランの一週間夏休みに合わせて福岡経由で大分へ帰省した。
それは学生時代また脱サラ後の東京暮らしに於いても途中経由して福岡に住む同級生と飲み明かすというのが欠かせぬ恒例行事だったからだ。
ただその頃ヤツは新婚だったし、私はと言えば東京〜大分で遠距離ナンチャラのカミさんを両親に紹介する予定があったものだから、その日はそのまま電車に乗って大分へ戻ったかも知れない。
今度トキハのカフェ音らくに行ってヤツと記憶をすり合わせてみよう。
問題はそこからなのだが、実家で日航機事故の衝撃の一報を知らされた。
その時、あの羽田の混雑と九ちゃんが・・・という悲しみ、そして、もしかすると飛行機事故は我が身にも起こったかも知れないという万分の一の可能性がないまぜとなって頭を巡った。
多くの方々が犠牲になられたこの事故は今だに毎年語り継がれ当時を知る人々の心に哀悼の念を呼び起こす。
と、近年までは話はここまでだったのだ。
だが、ウィキでこの事故の詳細を調べていて衝撃の事実を知った。
それはあの日のJAL123便伊丹行きJA8119機はその前にJAL503,504便として羽田-千歳線を往復し、363,366便として羽田-福岡往復をし、また123便として伊丹に向かっていたのだ。
JAL363便。
羽田→福岡。
まさに当日の私の行程。
私が利用した便が363便であったのかはわからないけれど昼のうちに福岡に着いたことは確か。
まさかね、そんな偶然が私の身に起こるはずはないだろうからきっと便が違う筈。
とは言え事故調によると8119機はそれ以前にしりもち事故を起こしていてボーイングの不適切修理による圧力隔壁の破損があった模様なのだ。
つまりは御巣鷹山にいたるまでに事故が起こっても不思議はなかったということ。
JAL363便が福岡にたどり着いた奇跡。
その後の悲劇。
改めて犠牲になられた方々へのご冥福をお祈りするとともに我が身が生かされていることへの感謝の思いを噛みしめる一日としよう。