昨日、中学の還暦同窓会が行われました。
卒業から45年、60歳になる私達は、久しぶりに集い、交流を深めました。
今回の同窓会、同じ学年だけでしたが、80人近くが集まり、90歳を超える恩師もお二人参加してくれました。
私は幹事長として、各クラスの幹事をまとめ、企画や予算案を随時提案、進行表や台本、動画編集、チラシや200名分の郵送ハガキまで作成し、その返信先を自分の住所にしたりなど、中心になり引っ張っていく役目でした。
本会では司会をつとめました。
もちろんプロではないのですが、イベントでは進行表、台本を書いている身なので、心得は多少あります。
しかし仕事ではないイベント。
幹事長、司会、普通ならお断りしたい重積だし、仕事や主夫として忙しい自分。
すでに定年退職しているゆったり同級生もいる中で、なんで自分?と思ったこともあったけど、そこを飲み込んで、今回は引き受けました。
何故?それはこの中学とはとても深い縁があるからです。
私の父は45年前、私が中学3年の時に第15枚PTA会長をつとめました。
そしてそれから30年後、次女が中3の時には私は第50代のPTA会長をつとめ、親子二代となりました。
そして何より、妻と最初に出会った場所ということ。
47年前の中学入学式の日に、始めて妻に出会いました。それから13年後に結婚し、2人の娘を授かりました。
その7年後、長女5歳、次女3歳のとき
くも膜下出血で夜中に搬送され、翌朝には脳死判定を受けました。
妻は亡くなってしまったけど、出逢わせてくれた中学にはずっと特別な感情をもっていました。
理由はもう一つあって、
妻がくも膜下出血で救急搬送された病院、
その時の脳外科の宿直医で、妻を最後まで看取ってくれた担当医。
偶然にも私と妻の中学の同級生でした。
救急車から降りた私達、
彼は意識を失っていた妻と私を繰り返して見て、
「え?〇〇ちゃんなの?」と絶句し、
しかし懸命に治療にあたってくれました。
翌朝、彼は私に
「残念だけど、、、脳死判定.......。」涙がつまりながら、嗚咽を吐きながら告げてくれました。
私は地獄に落とされたくらいのショックだったけど、彼も相当にショックを受けていました。
そして、最期の時。
「ご臨終です」も彼から聴きました。
彼にはその14年後
やはりくも膜下出血で倒れた義妹も看取ってくれました。
義妹の死から会ってなかった彼が、
今回の同窓会は参加ということを聞いていいたので、しっかりとお礼と話しをしたかった。
彼以外にも、多くの同級生がお見舞いに来てくれたり、落ち込んでいる私を支えてくれていました。
それは全部の席を回ってという人数ではなく
みんなへのお礼はステージの上からしたかった。
前日までの準備では、さまざまなトラブルもありながら、面倒なことも多かったけど、なんとか整い、昨日を迎えることができました。
司会も特に緊張することもなく、段取り通りに進行することができました。
そして最後の私の幹事長挨拶はこんな内容でした。
「〜〜〜本来なら、みなさんと一緒にこの同窓会に出ていたはずの妻ですが、26年前の34歳の時、子供が5歳と3歳の時に、くも膜下出血で急逝しました。
偶然なのですが、妻が病院に搬送された際の担当医が、同級生の〇〇君でした。
妻は出血した箇所が悪く、手術が出来ない状況で脳死にいたりました。
脳死宣告を私に伝える時の〇〇君が涙で言葉が詰まっていたのを思いだします。
病院にはここに出席している多くの妻の友人や部活仲間が、最後に妻の顔を見にお見舞いに来てくれたのを思い出します。
13日間の入院、中学の同級生だけでも数十人がお見舞いに来てくれました。
妻がどれほど親しまれていたか、
医療の世界で頑張っていたのか、
あらためて理解し、それを奪ってしまった自分の力の無さを痛感しました。
〇〇君には妻を看取っていただいただけでなく、その後、やはりくも膜下出血で他界した妻の妹も看取っていただきました。
妻の死から26年、皆さんと会う機会もなかなか無くて、今回はこのステージの上からご挨拶とお礼を申し上げます。
ほんとに支えくれてありがとうございました。
多分、皆さんが聞きたいのは、娘達のその後だと思います。
長女は高校生から付き合っていた同級生と結婚し、現在は東京の都立高校てわ英語担当の教師です。
次女は市内の小学校の教師です。
妻からのバトン。
2人とも無事に社会に送り出すことができて、ようやく肩の荷が降りたところです。
私は1人身です。
お話しはいくつももらいましたが、お断りさせていただきました。
多感な時期を生きる娘達に、新しいお母さんはマイナス要素だと考えたからです。〜〜〜
幹事長挨拶は、15分ほどかかりました。
長い挨拶だったのに、終了した時間は進行表とピッタリの17時00分。
自分の段取りや時間の読みや進行、
さすがプロだのと我ながら感心。
会終了後、今は県病院の副院長となった彼と15分ほどいろんな話しをしました。
彼曰く、親よりも辛い患者だったとのこと。
自分にとっても、脳外科医として生きる厳しさを教えられたと。
それもまた心に残る言葉でした。
久しぶりに彼や、そして同級生とも会って、
現在の自分の状況を話すことができました。
そして、これで妻の死を一区切りつけることが出来たとも思います。
そんな人生の転換となる同窓会になりました。