自分にはいろんな顔がある。

と言っても二面性とか多重人格とか言う話しではなくて、それは私に限らずみなさんが持っているものだと思います。

 

家族に見せる顔。

 

仕事で見せる顔。

 

友人に見せる顔。

 

先生として見せる顔。

 

まだまだあるかな?

 

 

その顔はどれも欺いているわけではなく、すべてが本当の自分です。

 

しかしやっぱり家族に見せる顔を仕事で見せるわけにはいかないし、友人と同様に生徒に接するわけにもいかない。

 

だからそこは使い分けるようになります。

 

 

それと似たことかもしれないけど、相手によって見せる顔を変えることもあります。

 

距離を縮めても大丈夫そうな人と、頑なに頑固な人では、受けるこちらの体制も変わります。

 

そう考えると、私はいったいいくつの顔を使いながら、私は生きているのだろう?

 

 

 

 

 

 

先日、縄文展に行き、土偶達の顔を見ながら、そんなことを考えていました。

 

カワイイ・カッコいい・美しい など様々に表現される顔たち。

 

 

 

 
 
この時代を生きた人たちも、こんなに顔を使い分けていたのかは不明ですが、
 
その豊かな表情に魅入られました。
 
 

 

しかし世の中には、その顔をまったく変えないで生きた人達がいます。

 

多分、それは巨匠と言われる人達で、自分の信念の元に、自分を表現する人達。

 

縄文繋がりで言うなら、岡本太郎とか。(大阪万博の太陽の塔は縄文土偶をオマージュしたものと言われています)

 

ピカソや音楽の巨匠とか文豪とか。

 

確固たる自分を持っていて、それを周りが認めている人は、顔を使い分ける必要がない。

 

その境地には遠く遠く・・・いや、なりたいわけではないですね。

 

その人たちは、人を脅かすほどの威圧感があったから、そうなったわけで。

 

 

自分は普通に周りの人たちと協調して生きていきたいです。

 

縄文はあまり人間同士の争いを行わなかった、温和な時代だったと聞きます。

 

争いが起こりだしたのは、中国や朝鮮からの渡来人が渡ってきてから。

 

 

私は縄文のように、狩猟採集民であっても、

 

平和で、そして、昼の太陽と夜の月を愛でながら、生きていきたいと思います。