4月1日という日は、年に一度世界中がユーモアになるエイプリルフールでもあり、新学期や入社、異動部署への初日という初づくしの日でもあります。
いまバイトしている部署にも、異動の社員さんたちが初出勤していました。
夢を持って入学した学校も会社もバイトも、こうやって落ちこぼれていくんだろうな。
せっかくのエイプリルフールなんだからもっと夢があるウソを書きたいところですが、今日一日こんな気持ちが脳に居座っていました。
3月からはじめた短期バイトは、誰でもできる仕事なんていう甘いことばは見せかけで、蓋を開けてみたら訴えたいくらい複雑だった。
3月の2週間くらいは研修期間で、とにかく覚えることが多すぎる。
そして、マニュアルも複雑。情報量が多すぎて頭が満腹になり、まったく集中できなくなる時間帯がやってくる。
周りをみると、大多数のひとが同じ感情を抱いていて、本当にできるのだろうかと不安をもらしている。
わたしたちに説明する管理者の方は「数こなせばそのうち慣れるから大丈夫」と言っているが、
本当にそれでいいのだろうかと、研修中からずっと疑問だった。
押し間違えたら厄介なことになるボタンが、作業上頻繁に使うボタンの真横に配置されていて、マニュアルには「注意!」とどでかい文字で書かれている。一歩間違えば凶器になりそうなほど分厚いマニュアルは、実務を進める上でうっかり見逃しそうで知っておくべき重要なことが書かれていない。
こちら側がメモをして、マニュアルをよく見て間違えないようにすべき、という環境。
そのマニュアルがよくわからないんだけど?と、自分含め周りの顔がこころの中で語っているかのように見える。
そんな?(ハテナ)マークだらけので不安いっぱいな状態であるから、
本番前の練習問題を試す研修中も、管理者への質問がとまらず、ひとりからの質問も長く、質問したくてもできない。
わたしは思ってしまう。
わざわざ間違えやすい位置にボタンを配置するくらいなら、先を見越して間違えないように配置すればいいだけなんじゃないの?
大多数のひとが複雑と思い不安になるマニュアルも操作手順も、もっとわかりやすく不安な気持ちにならない方法はないかと、改修を考えたひとはひとりもいなかったのだろうか?
改修には費用がかかるし、いままでこの方法でやってきたしやれてきたんだから、という声が聞こえてきそうだけど、不安だらけで精神衛生上もよくなく合理的じゃないこの環境に「慣れる」ことが「大丈夫」という結論でいいのだろうか。
なにもこれは仕事だけのことではなく、学校も同じことなんだろうな、と頭の中で景色が重なった。
学校にいまのバイト先を置き換えると、バイトに説明する管理者は先生で働くわたしたちは生徒。
先生の教え方がいくら悪くてもできない生徒が悪い。
希望いっぱい夢いっぱいで入学した学校も、だんだんついていけなくなって不安が募り、そのうち行くことがイヤになってきて、やがて落ちこぼれとなっていく。
まるで、世の中の縮図をみているかのような錯覚に陥る。
”できるできない” はそもそも向き不向きもあるとは思うけれど、それを簡単に本能的にできるように提供しているモノコトに触れたとき、それこそが真のクリエイティブだと強く感じて感動する。
埋められる程度の格差しか生み出さない工夫。
学校は仕事や製品と違って、個性という発見に繋げられることがクリエイティブなのかもしれない。
「慣れる」っていいことばかりじゃない。
「おかしい」と疑問に感じるからこそ新しい発想に繋がっていくと思うから。
最初「おかしい」と感じた感覚は、飼いならされそのうち何の疑問も感じなくなって、「慣れ」という時が止まった鈍感な世界に、脳がどっぷりと浸かっていく。
今日も複雑で疑問いっぱいの一日の中、仕事をこなす上では一日でも早く慣れる自分に期待しているけれど、一方ではこの環境が普通であると慣れきってはいけないと思っている。
慣れてしまったら自分の中に感じた「なぜ?」を忘れてしまいそうだから。
落ちこぼれになる過程の気持ちが、はじめてわかったような気がする。
世の中に ”落ちこぼれ予備軍” という未来予想図をつくらない、4月1日という初日であったことを願いたい。
<本日の課題>
こんなことを考えた今日だっていいことはあった。
雨の中自転車行きを決意した朝、自宅を出たときはほぼ雨が止み、濡れずにすんだ。
わたしにとって自転車が使えることは大変ありがたい。ありがとう宇宙。
つらつらと思いを書いてみたけれど、別に人生に落ちこぼれたわけではないのだから、ひとつくらいなにかの ”落ちこぼれ” があったってどうってことはない、とウソではなく本気で思っている。